今回の太郎冠者氏の行動については、それほど興奮も覚えず特別の感懐もない。田中正造翁の行動への類推から、「ヘーゲルが世界精神として歴史を導いて、きわめて几帳面にすべてを二度くり広げさせたかのようだ。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみすぼらしい笑劇として」(「マルクスへの手紙」1851年12/3:『大月版マル・エン全集27』)の、エンゲルスのことばを思い起こすほどのことでもあるまい。田中正造については、その祥月命日の日にわがブログにすでに記してある。
http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20130904/1378275764(「明治の柩」)
むしろ思想史・精神史関連で注意したいのは 、「結果倫理」において是非が問われるべき政治家の行動をめぐって、「心情倫理」で判断および議論されている場合も散見されることである。前にも掲載した、小島毅東京大学教授の『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)のreviewを若干修正し、再録したい。
◆小島毅東京大学教授の『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)は、知的刺激に富んだ本である。陽明学的心性をキーワードとして俯瞰された近代日本思想史試論と言えるだろう。王陽明の「知行合一」とは、「知に対する行の優位を強調するのではけっしてない」のであり、学ぶ者それぞれの病弊に応じた「対症薬」としての方法論的特徴をもつ、「着実な実践から遊離した空疎な思弁哲学」とカントのいわゆる「適法性」に相当する「律法主義・功利主義・因習偽善」に対する救済の原理として提起されたもので、「知と行が本来的に一つの渾然たる心のはたらきの抽象化された二側面」である、との大西晴隆氏の解説(「人類の知的遺産」25『王陽明』講談社)を思い起こしても思い起こさなくても、この書は自己完結的な作品として読むことが可能である。そして面白い仕上がりになっている。
その起源が「神道」にはなく、「儒教教義に基づく社」である靖国神社の祭る「英霊」とは、そもそも「維新」に貢献した戦死者・殉難者のことであり、「英霊」なる言葉自体も直接的には水戸学の藤田東湖の文章に典拠を置いている。小島教授によれば、この水戸学と日本陽明学は、人物の交流・相互影響をみても交叉している。さらに明治になって、この精神史的水脈に理念化された「武士道」も加わって、「日本精神」の伝統なるものが醸成されることになる。
いったいに「仏教との訣別」から始まった「江戸時代の儒教史」は、一般的に神道を儒教的に理論化した朱子学派、陽明学派、古学派の三つ(さらに、考証学派、折衷学派を加えて五学派)に分類されるが、実はこれは、明治時代の井上哲次郎によって定着した方式である。つまり、江戸時代にはそのような認識はなかったのである。
そもそも陽明学派という思想家の系列の設定がおかしいようだ。大坂で蜂起した陽明学者大塩平八郎について教授は述べている。
……大塩の考えが陽明学者になってから変わったのではなく、そういう考え方をするする人だったから陽明学に惹かれたのである。そして、これもまた、陽明学者の多くにあてはまることである。
つまり、こういうことになる。陽明学者は陽明学を師匠から伝授される必要がない、と。中国でも日本でも、高名な陽明学者は朱子学の学習によって陽明学者になる。教祖・王守仁(陽明)にしてからがそうである。彼は熱心に朱子学を学び、その精神を実践しようとし、挫折し、悩み、そして悟った。「理を心の外に探し求める朱子学のやり方は根本的に間違っている。理とはわが心のはたらきにほかならないのだ」と。……
小島教授の「陽明学的心性」は、マックス・ウェーバー風にいえば、「結果倫理」ではなく「心情倫理」にあたるものであろう。明治になって、この「陽明学的心性」は、キリスト教(プロテスタンティズム)やカント哲学そして社会主義思想の受容まで基層で支えていたのではないかと分析している。見事な考察である。
……彼らが信じた「陽明学」を「陽明学ではない」と断言的に否定する権利は、わたしにはない。彼らが求めていたのは、王陽明その人の教説に原理的に忠実に生きていくことではなかった。彼らが置かれた時代背景の中で、生活指針となりうる過去の思想的遺産であった。それは「彼らの陽明学」であった。ここで私に言えることは、「彼らの陽明学は、王陽明の陽明学ではない」ということだけである。……
祖先にその学問で水戸藩に仕えた青山家をもつ社会主義者山川菊栄と、水戸天狗党の蜂起加担の咎で切腹を命じられた宍戸藩主の血脈をもつ三島由紀夫を対比的に描いた終章は、この書のモティーフを示して出色である。
……山川がめざした「共和国」も、三島が望む「帝国」も、実現しなかった。政治が理想を語らなくなったからである。莫大な負債を抱えた政府にとって、「儲かるか否か」が政策のすべてになった。……
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8584-1.html(「農と島のありんくりん」)
原発ゼロの信者は原理主義者だから、幾ら理詰めで説いても無駄。平気でゼロや無限大を持ち込むから、数値を示すのも無駄。要するに、小泉氏が新しい宗教に入信したという話。 http://t.co/DKf9fmoXwQ
— ふれでりっく (@sakanamikan) November 7, 2013
私は山本太郎氏を民意の正当な代弁者と認識してます。均質で優秀な生物集団より、多様性とばらつきのある生物集団の方が、環境変化に強くリスクヘッジに向くと考えているので、問題候補にも存在意義はあるでしょう。 だからこそ彼の一連の問題行動を批判しています。盲目的な支持は彼を殺しますよ
— ryoko174 (@ryoko174) November 5, 2013
マル激で米長問題を宮台氏は、自民党は全く批判していなかった、マスコミも朝日新聞以外は全く扱わなかったの山本太郎で大騒ぎ、これこそが恣意的な政治利用だと言っているが、私はそう思わない。 http://t.co/aozWn4zjcc
— John Lemon (@montagekijyo) November 4, 2013
天皇が「統治権の総覧者」であってはならない、天皇の「大御心」の通りになる(そこに多くの人が期待する)政体であってはならないというのが、日本国憲法の基礎の基礎、というか、その制定の動機だと思うわけですよ。街頭でチラシを配る感覚で天皇に請願するというのは、その感覚が欠如している。
— 玉井克哉(Katsuya TAMAI) (@tamai1961) November 2, 2013
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/11/09/kiji/K20131109006975190.html
(「スポニチ」11/9)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のピラカンサの実。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆