「キャタピラー」は老荘思想

 
 10/30(日)WOWOWで、若松孝二監督の「キャタピラー」を放映。江戸川乱歩の「芋虫」が着想のもとにあるだろう作品で、四肢を喪い、キャタピラー(caterpillar:芋虫)のごとくなって戦地から帰還した夫と介護する妻の壮絶な日常を、リアルに描いている。寺島しのぶ大西信満の熱演に感動した。夫の絶望の視線と、妻の躰が発散する生命力の交錯に圧倒されてしまった。戦争とそれを行う国家というものの愚かさを明らかにしている。重すぎる作品であるが、体調のいいときには観てもいいだろう。ボカシが入るのには閉口するが、寺島しのぶが裸体をさらすのはこの作品では必然である。畑仕事で汗を拭う表情が、モンペ姿とともにじつにいい。拍手したい。
(昔伊勢丹前「蠍座」で、若松孝二監督作品を鑑賞している。)
 寺島しのぶの妻が「食って寝てまた食って寝て」としばしば呟くのが、印象的である。この台詞で、亡くなった中国哲学碩学福永光司氏の口述記録『飲食男女ー老荘思想入門』(朝日出版社)を思い起こした。故河合隼雄氏が聞き役となって構成されている。日本文化を考えるとき、老荘思想道教の圧倒的な影響を無視しては何も見えないことを、豊富な文献史的関連でしたたか教えられる。 
……また、戦争に行って、一番耐えられない苦痛は睡眠不足です。眠ることができなくて、眠りながら行軍しなきゃいけないんですからね。そして小便はまだしも、大便で列を離れたら絶対に帰ってこられない。やられて、みじん切りに殺されるのは確実です。そしてなんとか食い物と飲み物が足りると、あとはやはりどこかに女はいないかとなります。元気な人たちばかりですからね。戦争は、むき出しの飲食でしょう。そこに腰を据えて、人間を見ていく視点が、やっぱり一つ必要なんです。
 そういう面を、男女が全て交わらないように、平行線できれいに整理して、あとは観念的にそれを美化した世界をつくるのでは、やっぱり難しいでしょう。何か崩壊したときに、処置なしではないかと、我々、実際に戦場に何年かいた者から見ますと、そういう感じがするんです。……
 戦場での体験で、「飲食男女」の命のいとなみを外しては、力のある思索にはならないことを思い知らされたようである。
 全体を貫いて、中国には「馬の文化」と「船の文化」の異なる伝統があるということが繰り返し語られ、大まかには前者は秩序=コスモスを代表し、後者は混沌=カオスを代表しているという。お日さまは太陽でたくましい男性とし、手綱をもつ右手すなわち右を重んじ、二の倍数=偶数を重視するのが「馬の文化」で、それに対して、老子の「天道は万物の母」の言葉にあるように太陽は女性であり、左を重視し、「万物を生ず」三即ち、陰気と陽気と和気によって宇宙の生成を考えるのが、「船の文化」である。儒教は陰陽のつまり男女の交わりを避け、二の倍数で全部整理しようとするのである。「日本でも、大きな企業や何かの秩序づくりは、ほとんど儒教で、馬の文化です」との指摘も、考えさせる。
 親鸞自然法爾(じねんほうに)の思想も老荘思想(タオイズム)で、法爾は法然と同じで、「おのずから然(しか)る」の意味であり、阿弥陀さまの前にぬかずきなさいという考え方も、道の前では万物斉同(ばんぶつせいどう)という、老荘の哲学と同じことなのである。いったいに日本の仏教は、中国の仏教経由で取り入れられたものであり、老荘思想の用語、宇宙・人間把握と渾然一体となったものを輸入し、展開した文化であるから、その探究には直接サンスクリット仏教にあたるだけでは、不十分というわけである。
 玉と鏡と剣のいわゆる三種の神器も、もともと中国の道教の鏡と剣の二種の神器に、儒教のシンボルである玉が付け加わったものなのだそうである。「天皇」という言葉自体が、北極星を意味する「天皇大帝」からきたものであり、さらにこの言葉は、横の連帯を中心とする思想によって書かれた書物の中で定着したということも、考えさせる問題である。
 とくに教育に関連してなるほどと感動したのは次の二人のやりとりであった。老荘の知恵が実に肉体化されている。
福永 ものを言わないということの方がはるかに効果がありますね。自殺未遂者が、わーっと逃げ込んできたりしても私はずっと世話係をやってきたから、何も言わずに、ただ一緒に歩くんです。
河合 そうそう、それです。
福永 「ばか」だとか「何しているんだ」とか言わずに舞鶴に行ったり、一緒に砂浜に座ってぽかーんと海を眺めてから「もう帰ろか」とかと言うのです。ただし、その間に説教をしたらだめなんです。
河合 絶対だめです。
福永 何も言わなくても、ちゃんとわかっているんですよね。

 江戸川乱歩の全集は、古本屋に引き取ってもらい、いまは手許に限定本の『犯罪幻想』1冊だけ。この本は、「芋虫」ほか短篇の傑作を収録していて、棟方志功の版画が挿画として使われ、1000部限定で昭和31年に刊行されている。内1番〜200番は、棟方志功の手摺り木版画11葉挿入された豪華本。わが蔵書は九百七拾貳番と朱印が捺されたもの。江戸川乱歩の直筆署名入りで、永井荷風の本をかつて行商して売っていたことのあった、千葉県市川のいまは亡き名物古本屋の主人が「間違いなく乱歩のものです」と保証してくれた。201番〜のでも古本屋相場ではけっこうな値がついているらしい。ビブリオマニア(bibliomania)ではないが、この1冊は自慢できる収集の一つである

飲食男女―老荘思想入門

飲食男女―老荘思想入門

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の薔薇。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆