黒川正剛太成学院大学教授の『魔女狩り』(講談社選書メチエ)は、ヨーロッパで15世紀前半から18世紀後半にかけて約4万人の人々が魔女として処刑されたとされる、その魔女狩り=魔女裁判とは何であったのかを、近代誕生の機制との関係で捉えようとしている。考察の視点は、1:視覚を中心とする感覚の近代化、2:自然認識の変容と近代化、3:他者・社会的周縁者の排除と近代化の三つである。本の構成は、第1章:中世末、第2章:15世紀、第3章:16〜7世紀、第4章:17世紀後半と通史的に歴史事実を辿っているが、あくまでも三つの視点から、それぞれの時代の中心人物の著作と活動をまとめている。個人的には、歴史事実については、第3章のボルドー高等法院評定官ピエール・ド・ランクルがバスク地方ラブールで実行した魔女裁判のところが面白かった。また、第4章は、17世紀における「知の制度」を「視の制度」の変化の相のもとで捉え、美術史上の「バロック」と魔女裁判との同時代性、デカルトやベーコン(ベイコン)の思想と魔女&魔女裁判観との思想史的連関などを学ぶことができた。
◯危機の時代である14世紀を通じて、ハンセン病患者・ユダヤ教徒・カタリ派・ワルド派など正統カトリック教会に歯向かい、キリスト教世界を転覆しようと企むとされた集団がヨーロッパ人の観念世界に陸続として登場してきた。それらはいずれも社会的周縁者であり、西欧中世の人々にとって他者的存在であった。キリスト教徒殺害、悪魔崇拝、乱交といった忌まわしい罪状が積み上げられていった。
◯見たことがないことをあたかも見たように書く、あるいは想像上・幻想上の事柄を真実かつ現実的な事柄として描く、無意識下で行なわれる、このような「視覚的・認識論的錯誤」こそ、魔女信仰を支えた心性であった。
◯906年頃プリュム修道院長レギノによって著された『司教法令集』(最終的に12世紀の『グラティアヌス法令集』に収録)は、10世紀以降、魔女狩りが猛威を振るう近世に至るまで数百年の間西欧人の魔女信仰に大きな影響を与えた。そこでは、「悪魔によって創案された魔術とマレフィキウムという邪悪な術策」について述べられ、および女神ディアーナに先導されて夜に騎行する女たちの「真実ではない」イメージが描かれている。魔女の空中飛行という、「視覚的・認識論的錯誤」はまだなかった。この魔女の空中飛行を現実かつ真実と初めにみなしたのが、ドミニコ会修道士ニコラ・ジャッキエの『異端的魔女のための笞』(1458年)であった。
◯15世紀の二つの書、ニーダーの『蟻塚』では否定的と肯定的と二項対立的であった女性観が、その影響を受けたクラメールの『魔女の槌』では完全に崩壊している。もともとキリスト教にあった女性は動物と「男性=人間」の間の半人間であるとの、女性の他者化が中世期末にますます昂進していった。
◯異端・イスラーム教徒・ユダヤ教徒などに対して「反・自然」の言葉が投げつけられた。キリスト教にあっては、自然=神であったからである。
◯法学者ウルルヒ・モリトールの『魔女と女予言者』(1489年)は、魔女の行為を描いた木版画を挿入した最初期の書物で、魔女の行為の幻覚性を主張している意図に反して、その現実性を証明するものとして後の魔女の図像や観念に大きな影響を与えた。
◯16世紀前半、とくに20年代以降は魔女狩りの波が小康状態を迎えるが、その原因の一つはルネサンス人文主義者の挑戦であった。ルネサンス人文主義は、悪魔概念や悪魔と人間が取り交わす契約概念を精緻化したスコラ学に批判的であった。新プラトン主義の立場のルネサンス人文主義は、自然魔術について知的・道徳的な威信を自認していて、呪術には必ず霊すなわち悪魔が関与するとのアリストテレス主義には反対し、魔女が行う魔術を未熟かつ無力なものとみなし蔑んだのである。
◯「木版画、銅版画、エッチングといった方法で一枚刷り木版画、挿絵入り片面刷り印刷物、書籍の表紙、口絵、書籍の挿絵として制作された図像は、十七世紀に至るまで魔女を表象するためのもっとも人気のある媒体であった。」(p.119)しかし印刷術の発展のもとで魔女の表象が視覚イメージ化されても、魔女に関する「視覚的・認識論的錯誤」を正したわけではなく、むしろその「錯誤」を増幅させたのである。
◯「動的・豪壮・華麗・誇張・過剰」を特徴とするバロックと、悪魔崇拝や陰惨な魔女の火刑の光景を想起させる魔女裁判が同時代現象であったのである。バロックの淵源は、はカトリックの反宗教改革で、イコノクラスム(聖像破壊運動)など起こしたように、物体を用いて視覚に訴える方法で信仰心を高めることを嫌う宗教改革者たちに対して、カトリックは視覚イメージを重視した。教皇クレメンス八世の時代、聖年(1600年)には盛大な造営・装飾事業が行われ、バロック美術が花開くきっかけとなった。
◯バスク人を祖先にもつボルドー高等法院評定官ピエール・ド・ランクルは、同じ血が流れるバスク人を他者として差別化し、魔女として裁くことによってフランス人となったのだ。魔女裁判が、民族的・国家的・文化的アイデンティティを確定する機能をもったのである。
◯バロック時代に興隆した絶対主義国家、カトリックとプロテスタントの宗教戦争、魔女裁判、この三つは時代的にほぼ重なる。1560年代頃〜1630年代頃最大公約数的に重なる。
◯カトリックもプロテスタントも、民衆のなかの異教的な名残の祭や呪術的慣行を悪魔の所行として断罪する点では、一致していたのである。
◯異端審問を含む教会が関わる裁判所による魔女裁判は、16世紀中頃以降衰退し、代わりに世俗裁判所が魔女裁判を支配するようになったのである。教会裁判所は近世の魔女裁判時代に魔術に対する司法権を主張していたが、実際に裁いたのは死罪に値しない呪術的行為や迷信の類いであった。
◯デカルトの『方法序説』が出版された1637年は、西ヨーロッパで魔女裁判が衰退の道を歩み始めた時期と重なる。「デカルト的遠近法主義」に関わる「視覚の特権化」と魔女裁判の衰退には関係があると考えられる。トマジウスは『魔術の罪について』(1701年)で、注意深く物質性をもつ人間と物質性をもたない悪魔が関わり合いをもつことが不可能であると論じている。「思惟する精神」と「延長ある物体」との二元論を説くデカルト哲学の影響を見てとれよう。ベイコンは悪魔と魔女が関わりもつことは認めても、想像のみによって「遠くにいる」人に危害を加えることは不可能だとした。
◯「十七世紀の自然観は、自然研究の進展とともに中世のそれから大きな変貌を遂げつつあった。そのなかで先鋭化してくるのが視覚の重要性であった。そしてこれらの動きに合わせて魔女信仰も徐々に衰退していくことになったのである。」(p.234)
http://m34tanaka.jimdo.com/demonology-witch/魔女のイコノグラフィー/(「魔女のイコノグラフィー 〜 ヨーロッパにおける魔女像の800年 」)
15世紀スペインでの魔女裁判・魔女狩りを扱った、B級ゴシックホラー映画、『ペンデュラムー悪魔のふりこ(The Pit and The Pendulum)』。スチュアート・ゴードン監督。宗教裁判所所長トルケマダをランス・ヘリクセン、魔女の疑いにより宗教裁判にかけられてしまう、可憐なパン屋の妻マリアをローナ・デ・リッチが演じている。〈魔女〉マリアの肢体の魅力に囚われみずからの肉体に鞭の罰を加えるトルケマダの葛藤と行動が、この映画の見所である。
http://www.dailymotion.com/video/x95sb4_rona-de-ricci-the-pit-and-the-pendu_redband
(「Dailymotion:The Pit and The Pendulum」)