哲学と哲学史

 木田元中央大学名誉教授の『反哲学』(新潮社)は、哲学という学問分野が決定的に西洋文化圏固有のものであり、その思考形式および問題意識は古代ギリシアから近代・現代哲学まで貫通していることを、各時代の哲学的思索をたどりながら繰り返し強調している。もともと口述筆記を元にしてなった本だけに、繰り返しが少なくないことが、わずらわしいというよりもかえって主題が明白となり、興味を持続させて読み進められた。
『西洋という文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照にしながら自然を見るという特殊な見方、考え方をしたのであり、その思考法が哲学と呼ばれたのだと思います。』
 なおアリストテレスが「第一哲学」とした「metaphsica(メタフュシカ)」は、前置詞「meta」が、「〜の後に」のほか「〜を超えて」の意味をもつことから、配置として「自然学の後の書」であった「タ・メタ・タ・フュシカ(taは冠詞)」が、「自然を超えた事がらに関する学」=「超自然学」という意味になったものを、「形而上学」と訳したのは、「明治初期の研究者たち」が、その意味がわからなかったからのようだ。
 プラトンの世界像は数学的であり、アリストテレスのそれは動的で生物主義的(可能態→現実態)である違いはあるにしても、目的論的運動の最終目的である「不動の動者」としての「純粋形相」を導き入れた以上、「アリストテレスはたしかにプラトンの超自然的思考様式を批判し否定しようとはしたのですが、結局はそれを修正しながら受け継いだということになりそうです」。
 近代に入ってデカルトが「近代的自我」を発見したとされるが、著者はこの「常識」に疑問をぶつける。
『しかし、彼の言う近代的自我、理性としての私というのは、神的理性の出張所のような私にほかなりません。プラトンが「イデア」と呼び、アリストテレスが「純粋形相」と呼び、キリスト教神学が「神」と呼んだ超自然的原理の出張所のようなものが、人間のうちに設定されたといってよいかもしれません。一般に「近代的自我」といえば、そうした神的なものから解放され、そうしたものから自立した自我ということのはずですが、デカルトの言う「私」はそんなものではないのです。』
 その「神的理性」を退陣させたのがカントというわけだ。そこに近代哲学が始まる。カントは、「物自体に由来する材料(感覚)を、ある形式を通して受け容れ、受け容れた材料を一定の形式(思考の枠組)に従って互いに結びつけ整理することによってはじめて人間の間尺に合った世界」としての「現象界」を認識するとし、これは「物自体の世界」とは区別される。
 カントの人間理性は、さらにヘーゲル哲学において、「社会の合理的形成の可能性を保証され、自然的および社会的世界に対する超越論的主観としての位置を手に入れ」、「近代ヨーロッパの文化形成を導いてきた理性主義の最終的完成」となるのである。
 ところがニーチェは、「芽生える」「花開く」「生成する」の意味の動詞「フュエスタイ」から派生したことばである「フュシス=自然」の概念と重ね合わせて「ディオニュソス的なもの」を考えようとし、ソクラテス以前の「自然」観の復活を試みたのである。無方向な生命衝動であった「ディオニソス的なもの」から脱して、「アポロン的なもの」をも一つの契機として自分自身のうちにふくみこむ「現にあるよりもより強くより大きくなろうとする」、はっきり方向をもったいわば「計算高い」「力への意志」を、最後の思想の中心に据えた。そして、超自然学(形而上学)を本領とする哲学、キリスト教、禁欲を標榜するストア派以来の道徳などの価値定立の仕方にこそ、ニヒリズムの根本原因を見いだし、徹底的に批判して、「プラトニズムの逆転」を企てたのである。
『このように、必ずしもニーチェの思想を全面的に受け容れるわけでないにしても、ハイデガーをはじめとする二十世紀前半の思想家たちは、多少なりともニーチェの「哲学批判」つまり「反哲学」の影響下にものを考えはじめ、いわば西洋哲学の、さらにはそれを軸とする西洋の文化形成の脱中心化にとりかかります。そうした「反哲学」としての現代哲学を、その批判の対象であるそれまでの「哲学」と同一線上に並べ、その展開として見ようとするのでは、思考のヴェクトルがまるで逆なのですから、なにがなんだか分からないことになりそうです。』
 ハイデガーについても、第一次大戦後の実存主義の思潮の雰囲気に染まってしまった「現存在=人間存在」分析にのみ知的関心がむかい、それは実はソクラテス以前の「生成する自然」観への回帰としての存在一般の分析の導入でしかなかったことが、日本では軽視されてしまった。
 なるほど「存在とは何か」を問う哲学は、ソクラテスプラトン以前とニーチェ以降の間に成立した、超自然的原理の設定にもとづく西洋固有の思索の形式であって、わかるはずもない「日本の哲学研究者たちの自己欺瞞」はわらうべきであろう。「世界史」と「日本史」の一分野のような〈哲学史〉中心の高校「倫理」科目が、頓挫してしまったのもむべなるかなである。

反哲学入門 (新潮文庫)

反哲学入門 (新潮文庫)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の極楽鳥花(ごくらくちょうか:Strelitzia=ストレリチア)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆※極楽鳥=風鳥(右写真)