ぶらんこについて

 テレビ朝日のドラマ『遺留捜査』は、玩具のピアノ・おみくじの札・万歩計など、殺された人の身近に残された道具あるいは品物から、科学捜査と想像力によって、事件の真相に迫っていく展開で、アメリカの刑事ドラマ『コールドケース』(キャスリン・モリス主演:WOWOW放送)を思わせる。『コールドケース』のような、主役の刑事たちの孤独な心の闇を描く深さは欠いているにしても、面白く観られる。他人には何でもないような物品にも、あるひとには特別の思いや執着がある場合がある。そのことを軽視せず、被害者の無念をあきらかにしようと、科学捜査係主査の糸村聰警部補(上川隆也)は、しばしば組織の慣行に逆らってでも最後まで努力する。
 はじめは憤りとまどいならも、殺人捜査係の織田みゆき巡査部長(貫地谷しほり)は、しだいに糸村の捜査手法および関係者への思いやりに、心を動かされていく。飄々とした糸村聰と、正義漢の強い織田みゆきの関係が醸し出す雰囲気がどう発展するのか、今後の展開に期待したい。しほりんも、NHK龍馬伝』の千葉佐那さま系列の役どころで、凛とした所作と表情は磨きがかかって魅力的である。




 かつて観たフィナ・トレス監督の映画『追想のオリアナ』を思い出した。ぶらんこという道具が、亡くなった女性の過去の悲劇をあぶり出す物語だ。かつて書いたエッセイ「ぶらんこについて」を抄録したい。
◆ぶらんこ遊びが、やがてさまざまな形で経験する、めくるめく陶酔、ロジェ・カイヨワの遊びの分類でいうイリンクス(眩暈)の、少年少女にとってはじめての出会いであるから、ぶらんこは、回想されるこども時代の象徴に選ばれやすい。黒澤明の『生きる』の主人公の老いた役人が、癌で残り少ない命を、こどもたちの公園造りに燃焼させ、できあがった夕方の公園のぶらんこに乗り「恋せよ乙女」と歌いつつ亡くなる最後のシ−ンは、ぶらんこの童心を示す象徴性が活かされていて感動的である。
 フィナ・トレス監督の『追想のオリアナ』も、ぶらんこが小道具として重要な意味をもって描かれた映画である。
 叔母のオリアナの死亡通知を受けとったマリアが、相続の手続きのためパリを発ち、ベネズエラの屋敷を二十年ぶりに訪れる海辺の森の中の屋敷で、かつてマリアはここで少女時代を過ごしていた。閉鎖的な空間で深い憂愁をたたえて暮らす叔母に、少女マリアは、階段の下から「見上げる何気ない視線に込められた無言の愛」(川本三郎)とともに、謎を知りたい抗いがたい衝動も抱いたのである。

 庭でぶらんこを見つけたマリアは、邸に駆け戻り、書きものをしているオリアナに尋ねる。
マリア「あのぶらんこは叔母様の?」
オリアナ「ぶらんこ?」
マリア「木に吊ってあったわ」
オリアナ「何のこと?」
マリア「埋まっているのをみつけたの。お庭にさびた鎖があったから、一生懸命引っぱったの。古い板と鎖が出てきたわ。土を払ったけど、壊れてたわ。」
 土の中から鎖と板を引っぱり出す少女の手のショット
                          (細川直子訳)

 オリアナは必死になって何を隠そうとしていたのか。実は彼女には激しく恋した青年がいたのである。幼いころからともに森の屋敷で育てられた、異母兄のセルヒオだ。
 ぶらんこをこぐ幼いオリアナの背を押してやったのがセルヒオだったのだ。ぶらんこは許されない愛をゆっくりと育んでいった、なつかしくしかし残酷な思い出の対象だったのである。

 マリアは庭の奥にぶらんこをみつけると、板に彫られた.文字を読む。

マリア「セルヒオからオリアナヘ」     (細川直子訳)

 納屋で異母妹を抱いているところを発見した父親は、セルヒオを銃で撃ち殺した。オリアナを永久に納屋に閉じ込めようとした父親は、メイドに毒殺されてしまう。
 少女のときには見えなかった真実が、再訪したマリアにようやく明かされる。回想の中のぶらんこの痛々しさはどうだろう。カリブ海サルサの音楽の陽気さ、華やかさを海面に放って、その底で、もはや揺れることのないぶらんこの切なさを堪えているのだろうか?
 ぶらんこは、その機能の面から、現実的にも比喩的にもエロティックな道具となるようだ。中国の場合である。

春宵一刻 値い千金
花に清香あり月に陰あり
歌管 楼台 声細々
秋韆 院落 夜沈々

 蘇軾の七言絶句「春夜」の秋韆について、中野美代子教授は、「ぶらんこ」のことで、「この遊戯は六朝時代には女子専用のものとなった。遊びかたはいまのぶらんことまったく同じ、ただし年がら年じゅう遊んでいるわけではなくて、主として寒食(冬至から百五日目、煮炊きするのをやめて冷えたものを食べる日)のときの遊戯であった」という。
 さらに「秋韆の揺曳」とは「性交時の女体の腰の動きを指す隠語」であり、「ぶらんこ遊びのときに強く押すと、若い女の着物の裾が乱れる。男たちには、それをながめる楽しみもあった」という現実的な効用も、あったことになる。中野はむしろ暗喩的な意味のほうに、注意を促している。
無人のぶらんこがだらりと垂れ下がった状態」を指す、「吊diao」と同音で声調のみ、ちがう言葉が、「陽根」のことであることから、垂れ下がった「ぶらんこに若い女が乗り、中空まで高く漕ぎ上げる—これが秋韆なるものの隠された本質なのではあるまいか」。中国には、「ぐにゃぐにゃの縄を天高く放りあげると、ピンと直立するという話が多い」という指摘も想像力を刺激して面白い。
 結局この詩のイメ−ジは、ふけいく春の夜の屋内の閨房ですでに〈花芯〉は清香を放っていて、院落(中庭)にはぶらんこがうち捨てられながら、中の房事を暗示しているということになるようである。(中野美代子「秋韆のシンボリズム」『Reprsentation』1992、004号)

 まるでそれぞれが銅版画のような服部冬樹の写真集(共同文化社)に、「ぶらんこのおんな」が収録されている。麦藁を深めにかぶったヌ−ドの女がぶらんこの台に立ったものと、坐ってこぎそうな瞬間のものと二つがあり、1ペ−ジの作品としては立ったほうの写真が載っている。麦藁が少女時代を示しているとすれば、豊満な肢体はそこからの直線的な時間の推移を思わせ、動かぬぶらんこ、つまり静止した時間のなかにエロティシズムが封じ込められている。美のオブジェであるこの裸体にはいささかの生臭さもない。(写真カットは、『服部冬樹作品集』共同文化社限定300冊の内NO.27の別冊より)
⦅写真(解像度20%)は、東京都台東区下町民家の平戸ツツジ躑躅)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆