小谷野敦著『歌舞伎に女優がいた時代』(中公新書ラクレ)を読む(その2)

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 第三章「女團洲、市川九女八」は、この本の柱である。幕末期には大名の奥で芝居と舞踊を披露した御狂言師(お狂言師)の女性たちは、維新に伴って、その職を失いもともとの町の踊りの師匠に専念するか、下っ端で働いていた者は藝者になるか、売春のほうに転落するかしたりであったが、新時代の「女役者」として舞台に立つ者もいた。御狂言師坂東三津江の門下から出た、市川九女八は、歌舞伎を演じた女役者の代表であった。名人として知られ、九代目市川團十郎に認められて、その弟子扱いとなり市川を名のり、「女團洲(團十郎の俳号)」とか「女團十郎」と呼ばれ、大正2(1913)年死去まで活躍しているのである。
 弘化3(1846)年江戸牛込赤城下で生まれた少女けい(桂)は、母の再婚相手=義父と仲が悪く、岩井半四郎門下の岩井粂治のところに住み込み、そこで半四郎の門弟となり、岩井粂八の名をもらうのである。そしてやがて市川團十郎に認められ、9番目の弟子ということから市川久女八を名のるに至るのである。
 常設の芝居小屋に出ることになる久女八も、両国の小屋掛けの「おででこ芝居」にも出演していた。そこには腕達者で古参の三姉妹が出ていて、久女八の才能に嫉妬したらしい。

……久女八は座頭つきの腰元だったが、その才能で頭角を現し、それで三姉妹ほか嫉妬する者があり、ある時舞台で湯飲みに水銀が入れられた。それを知っていたチョボ(竹本)の大太夫が撥を落としてその茶碗を落として救ってくれたこともあったという。(p.75)  

『歌舞伎年表』によれば、神田の薩摩座で明治元年以降上演された『伽羅先代萩』で市川久女八が政岡を演じたことなどが明らかとなっている。藤基輔という名の江戸狂言役者と結婚しているが、そのことを知らない向きもいたようで、レズビアンだとの噂もあったとのこと。
 久女八には弟子たちがいたが、晩年は離れている。「久女八の晩年が寂しく見えたのは弟子たちが離反したせいである」。久女八は、大正2年舞台出演中に倒れて死んでいる。フランスの女優サラ・ベルナールの耳にまで「日本では久女八というのが第一等の女優」との評判が届いていたらしい久女八であったが、岡本綺堂が、「ランプの下にて」でこう書いているとのこと。

……彼女は一面にその技倆を認められながらも、単に時代おくれの、小芝居廻りの老いたる女役者として、その余生を送るに過ぎなかった。帝国劇場が開かれて、そこに女優という新しい名のおんな達がたくさん現われてから三年目の秋に、彼女はさびしく此の世を去った。市川九女八は日本における女役者の最後であった。(p.110)  

 ヴェラ・ベルモント監督、ソフィ・マルソー主演の映画『女優マルキーズ』を思い浮かべた。市川久女八と、17世紀フランスのモリエールの劇団で活躍したマルキーズの、それぞれの晩年の孤独と哀しみを重ねたことであった。著者は淡々と事実を追っていきながら、明治の世のひとりの名女優の、舞台に咲かせたであろう華と哀しい生涯を追憶しているのである。