青山七恵『ひとり日和』を読む

 遅まきながら、青山七恵の『ひとり日和』(河出文庫・標題作ほか一篇併録)を読んだ。まぎれもなく傑作である。春夏秋冬および、エピローグの「春手前」を含めておよそ一年間の、20歳の下宿人知寿と、71歳の主吟子さんとの出会いと別れの物語。物語中の〈事実〉描写のみに徹して淡々と書かれていながら、しょせんは孤独に生きるほかはない、ひとの心と身体の不可解さを深く抉(えぐ)っている。高校の先輩であった陽平と、そして京王線笹塚駅のアルバイト仲間の藤田くんと、短い間に次々と恋が破綻してしまう。成り行きで正社員となった会社の中年男との、府中競馬場でのデートに出かける、京王線車中の描写で終わっているが、この不倫の予感も、新たな離別の始まりを暗示していて心憎い。吟子さんのように、多くの別れの絶望を体験して、ひとは生きる覚悟のようなものを体得するのであろう。吟子さんが一人になって暮らす建物を遠く眺めていると、電車は発車し、「目をやると、靴を脱いだ彼女は座席の上に立って窓を開けようとしていた。それを、母親らしい女の人が面倒そうに叱りながら手伝っている。やっと開いた窓から風が吹くと、女の子のボニーテールが揺れた。青いスカートの裾もめくれた。」とある。巧い。この女の子もいずれ多くの別れの悲哀を味わうだろう、さらに一瞬主人公の知寿もそう思ったにちがいないと、想像させる場面となっている。
 知寿は決して一貫してよい子なのではなく、盗癖があり、弱い立場にある老人をいたぶろうとする悪意を隠さない。いたずらに悪人ぶっているわけでもなく、そのことを知寿自身が省察している。この小説が、文学作品としての奥行きをもっている所以(ゆえん)である。数少ない直喩も面白いが、この下宿先のロケーションこそ、ひととひととの距離の遠さ・近さを示す隠喩となっていて、卓抜である。
「この家は駅のホームの端と向かい合わせにあるくせに、わざわざ商店街のほうから回り道をしてこなくてはいけない。ホーム沿いに道はあるけれども、敷地が垣根で囲ってあるせいで、そこから入っていけないらしい。」
 技巧的には、会話と地の文との呼吸が絶妙で、リズムが心地よい。たとえば、下宿先の玄関で恋人の藤田くんに別れを切り出されたところ。

「じゃあね」
 と笑顔で手を振ると、
「じゃあね」
 と彼は返した。
「連絡しないほうがいいね」
「できれば、そう」
「じゃあ、そういうことで」
 心では、違う違うと叫んでいる。

 なお漢字の書き方について批評できる立場ではないが、「座」は、本来「坐る」行為の場所・器具を示すものである(例:女神さまのいるトイレの便座)から、「座る」と書いているところ(たしか2箇所)は、いまは誤記と決めつけられないにしても、文学作品としては、「坐る」と改めてほしいところ。

ひとり日和 (河出文庫)

ひとり日和 (河出文庫)

⦅写真(解像度20%)は、東京都台東区下町に咲くハナミズキ(dogwood=アメリヤマボウシ)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆