物語における「雨」


 11/26(木)東京池袋東京芸術劇場小ホール、tpt公演の、アンドリュー・ボヴェル作・鈴木裕美演出『この雨 ふりやむとき』を観劇した.めずらしくオーストラリアの劇作家の作品である.演出家の鈴木裕美さんによれば、「オーストラリアの作家は、地球環境の問題や、人間がどのように自立するかというようなこと、孤独ということを意識的に書く人がすごく多い気がします」とのことだ。
 この作品は、1960年代(ロンドン)、1988年(ロンドン&オーストラリア南岸のクローン、ウルル)、2013年(アデレード)、2039年アリス・スプリングス)と、時代と場所が異なり、登場人物も4世代に渉っていて、現実の時系列に沿って舞台が進行する展開ではないので、はじめはとまどう。部屋の窓に映る光景は、時空を超えて降る雨で、強かったり、雷雨を伴ったり、ふつうに降り続けたりしている.これは象徴としての雨であろう.同じ台詞や、ペンキ塗りなどの同じ行為も象徴的なものとして受けとれる.天から食料の「マナ」(『旧約聖書』)ではなく、魚が降ってくる(これは「ファフロッキーズ現象=FAFROTSKIES」だ!)場面もくり返される.いつでも人間の問題は、不変であることを暗示していよう。理解しあうことのむずかしさという問題であろう。
 先代のヘンリー・ロウが男児愛好の性倒錯者であり、そのことが発覚後ロンドンから逃れてオーストラリアに行ってしまう.その子ゲイブリエル・ロウが青年になって亡くなった父の跡を辿ってオーストラリア南岸に着き、ガブリエル・ヨーク(田畑智子)と出会うが、この暗い影を帯びた女性は、小さいころ、兄が変質者とおぼしき人物に殺害されてから、愛情もなく育てられ、両親も亡くなっていたのだった.ところがこの変質者こそ、青年ロウの父親だったのだ.われながら迂闊にもこのことに気づかず観ていた.そのことを一瞬にして理解したロウはハンドル操作を誤って事故死してしまう.たまたま助けられたガブリエル・ヨークは救助した男と同棲するに至る.50歳のときを演じるのは、元タカラジェンヌの植野葉子。同時に舞台に立ったりするのでややこしい。
 ともあれ、家出していた4代目のアンドリュー・プライスが、3代目でゲイブリエル・ロウとガブリエル・ヨークの息子のもとに戻ってくることで、外の雨はようやくやむに至る.
 ヘミングウエイ(Hemingway)の『武器よさらば(A Farewell to Arms)』の終末、愛するキャサリンがお産で死んでしまい、絶望して病院から出たフレデリック・ヘンリーに降り注いだ「雨」が、ここで降りやんだのだろうか.

 バルバラの「ナントの街に雨が降る」も、絶望と悲哀の雨である.やっと会えると飛んで行ったナントの街で、「彼=家出していた父」はベットに横たわって息絶えていた.街を歩く彼女の体に雨が降り続ける.名曲だ.
 昨晩11/29(月)は、銀座博品館劇場にて、若林圭子さんの年末リサイタル『春夏秋冬 時の流れるまま』を最前列で鑑賞.ここで「ナントの街に雨が降る」を聴いた.2回目である.そのときは、「彼」とは恋人のことかと思っていた.期待に反さず素晴らしかった.ヘミングウエイの「雨」が降り注いでいた.
「辻馬車」のようなコミカルで妖しい歌から、『平家物語』に材をとった「祇園精舎」、「なごり雪」、「夢見るシャンソン人形」、「百万本の薔薇」、「時代」(アンコール曲)などのカバー曲(cover)、そして専門の「甘さを抑えた」レオ・フェレの歌5曲、どれも哀しくかつ感動的で、魂レベルでの共感を感じることができた.連れ合いは、どのカバー曲も、若林圭子さんの歌のほうが深く味わいがあり、若作りして妙にケバケバしいところのない、ナチュナルでシックなファッションセンスもすてきだとの感想であった.ピアノ:江口純子、パーカッション:高良久美子、ベース:谷源昌の音楽も心地よかった.

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のスプレー菊(Spraymum)のエネルギータイム(Energy Time)。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆