哲学(的思考)にとっての世界と宇宙


 マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)著『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳・講談社選書メチエ)を読みはじめる。「この世界全体についての理論を展開しようとする試み」の形而上学に対して、ポストモダンは、「わたしたちにたいして現われているかぎりでの事物だけが存在するのだと異議を申し立て」ている。ポストモダンの議論で問題になったのは、「思想の伝統の最も重要な証言者」としてカントの名が挙げられる構築主義の「相当に一般化された形態」にほかならないとし、面白い比喩を述べている。

……いっさいはさまざまな幻想をもてあそぶ複雑な戯れにすぎず、そのなかでわたしたちは世界内での位置を互いに割り当てあっているのだ、と。もっと簡単に言ってみれば、ポストモダンにとって人間の存在とは、一本の長いフランス芸術映画のようなものにほかなりません。登場人物たちが他人を誘惑しようとしたり、他人にたいする影響力を追求したり、他人を操ろうとしたりしているのだというわけです。もっとも、このようなクリシェは、現代フランス映画では巧みなイロニーによって問いに付されています。たとえばジャン=クロード・ブリソーの『ひめごと』や、カトリーヌ・ブレイヤの『FOUR NIGHTS-4夜』を思い起こしてください。そうしたクリシェの選択肢は、デヴィッド・O・ラッセルの『ハッカビーズ』でも、楽しく軽いタッチで斥けられています。『ハッカビーズ』は『マグノリア』のような古典的作品と並んで、新しい実在論の最良の例証のひとつです。(pp.13〜12)

 ジャン=クロード・ブリソー監督の『白い婚礼』は好きな映画であるが、『ひめごと』はDVDを所蔵しながらも未見。カトリーヌ・ブレイヤ監督の作品は『ロマンス(ROMANCE)』ほかかつての主要作は観ていて、『FOUR NIGHTS-4夜』以降の作品は未見。退屈な哲学的議論と裸が〈共存〉しているところに、共通性を感じる。『ひめごと』は気が向いた折に観てみたい。



 さて世界とは何か、哲学(的思考)にとって物理学の対象領域である宇宙との区別が必要である。

 人生の意味を宇宙に見出すことはできません。それは、じっさいにわたしたちが、ほかからの光に照らされた球体の表面上を忙しく動きまわる蟻の群れにすぎないからではありません、わたしたちの人生が些末で無意味なもののように思われることの本当の原因は、まったく異なる対象領域をわたしたちが混同していることにあります。「宇宙」という言葉は、何らかの事物を表わすだけでなく、ものを見るさいの特殊な見方をも表わしているのです。それは、在り処を指示するさいにほかに選択の余地のない自明な方法であるわけでもなければ、わたしたちが存在している世界全体を表わす名称として確立しているわけでもなく、複雑な思考の操作の結果にほかなりません。宇宙は、どれほど広大であろうと、世界全体の断片のひとつにすぎません。(p.44)