ひらがな日本語と「英語公用語」

 11/19(金)は、東京両国シアターXにて、多和田葉子作、ルティ・カネル演出の『さくら の その にっぽん』を観劇.チェーホフの『桜の園』を基に、現代日本を舞台にし、パリ帰りの一家が「桜山」を売却して、再びパリに帰るまでの話を構成している.この作品で異色なのは、多和田原作が、すべてひらがな日本語で書かれてあることだ.ふつうに漢字・カタカナを交えて書けば、どの言葉もあらかじめの意味が分かってしまう.そこで、作者は、あえてひらがなのみで書くことによって、「一つの単語の中から聞こえてくること、連想することは、個人個人違っていると思います.だから一人一人が言葉の響きに耳を澄まして新しい何かを発見していくことがたいせつなのだと思います」(同公演パンフレット)とし、演じる役者に「音楽として納得できる喋り方を発見してもらえたら」との要求をしている.
「お前と俺は同期の桜。桜には散る動機がない」などとの台詞の言葉の戯れは面白く、かつて観たギリシア悲劇と同様、ルティ・カネル演出は、シンプルな舞台装置と、身体表現が重視されている.
 そこで現出している(のが期待されている)のは、近代・現代日本の通時的かつ共時的深層構造であろう.売り払われた「桜山」とは、ナショナリティの核のようなもの、さらには、そう思い込んできた共同の幻想と考えればよいだろうか.しかしところどころが間延びし、眠気を催した観劇ではあった.

 鳥飼玖美子立教大学教授の『「英語公用語」は何が問題か』(角川oneテーマ21)は、時宜を得た本で、昨今の「英語帝国主義」支配の世界的潮流に対してどう対処することが必要か、英語(通訳・教育)の専門家の立場から、説得力のある議論と提言をまとめている。
「自分の母語で話す権利」を根底に、企業の「英語公用語」化、および連動している文科省の国民の擬似的バイリンガル化政策などを批判的に考察している.とくに英語の能力を示す基準として、TOEIC試験の730点あたりを設定する場合があるとすると、このテストの内容じたいパターン化された問題であり、慣れれば実際の実力以上の結果は出せるし、各設問短時間での解答が求められるという偏った傾向がある.米国の学会が開発したOPIテストでは、「抽象的な話題」でとことん議論ができるレベル「超級」に達している日本の「帰国子女」は稀らしい.つまり問題は、英語であれ日本語であれ、ものごとを抽象化し、論理的に議論できるかどうかということなのだ。かつてイギリスの植民地であったインドや、じつは読解力でTOEICの点数をとっている韓国と比較して、性急に「使える英語」教育に傾斜したところで、「英語漬け」の生活にしない限り児童段階での英語教育には大した効果がないとの教育学的見解もあるそうである.またIT社会においては、日常的にメール英語の読解と作文の能力が求められることも注意するべきである.
『受験のせいで英語が話せるようにならないというが、それなら一貫校や指定校から推薦で入学する学生が格段に英語を話す力があるかといえば、そんなことはないのが各大学での現実である.逆説的に言えば、入試があるから何とか今のレベルの英語が保たれているのであって、受験勉強がなくなったら英語の基礎力は今以上に下落するに違いない.』(同書p.139)
 なまじ英語ができた中曽根康弘元首相、宮沢喜一元首相、鳩山由紀夫元首相などは通訳なしで、とんでもない英会話をしてしまったらしい.日本語が堪能だったライシャワー駐日米大使と、フランス語が堪能だったチャーチル英首相は公式の会談では母語を使い、英語が流暢だったクレメンソー仏首相は、英語の公式での使用に反対したそうだ.ここのエピソードは愉快であった.

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のスプレー菊(Spray mum:patent付)のジョーカー。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆