「接続」と「切断」

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現代思想の総展望2019』(青土社)の巻頭、仲山ひふみ(批評家)・千葉雅也(哲学・表象文化論)・小泉義之(哲学)の三人による討議『思弁的実在論「以後」とトランプ時代の諸問題』は、マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)著『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳・講談社選書メチエ)すら完読していない貧しい読者としては、討議の展開についていくのが難儀であるが、「リベラル左派」は「資本主義のどこが気に入らないのかということをちゃんと言えなくなっていると思う」との小泉氏の指摘に応じて、仲山氏が「ざっくりとしたまとめ」で、「全体として、たとえ失業問題が解決されたとしても、悪夢的に変化する労働環境のなかでのサイコソマティックな病の強制——さらにその裏面としての予防医学的な健康のイデオロギーの繁茂——という状態があるとすれば、そのレベルにまで資本主義批判のモチーフを後退——ではなく研ぎ澄ましていくべきだというのが、このところの傾向の一つなのかな」としている。疎外論を根拠にした資本主義批判の現代的蘇生ということだろうか。

 この討議の前に出ている議論で、千葉氏が「切断」という言葉で捉えている、政治学アルバート・ハーシュマンのイグジット(exit)とヴォイス(voice)の区別が面白い。

 

仲山:……つまり、何か政治的共同体なり企業体なりの運営のされ方に対して不満を持つ人がいたとして、その人はその集団に対して二つの行動を取ることができると。一つは不満を声に出すこと——投票するとか、ロビイングするといったことですね。そしてもう一つはイグジット——要するにやめてしまうということです。政治の舞台から降りる、あるいは企業であれば退職する。

千葉:切断ですね。

仲山:国家でも地方自治体でも企業でも家族でも、あらゆるレベルの集団的な組織に適用可能な概念であって、それゆえにハーシュマン以降の組織論ではこの二つの概念を用いた分析が一つのスタンダードになっていたようです。

 そのうえで、ランドの考えによれば、近代的啓蒙以降どんどん進んできている民主主義の世界的普及の行き着く先は、贈賄やポピュリズムによって運営されるある種の腐敗した、不合理な社会体制でしかないということをリベラル民主主義者たちは洞察しているにもかかわらず、それを変えることができずにいる。それは彼らが声を発すること(=ヴォイス)で社会を変えようとしているからであって、新反動主義者がしなければいけないことはむしろイグジットなのだと。

 これは要するに、先ほど小泉さんがおっしゃったように、みんな分離主義でどんどん勝手に自分なりのユートピアをつくればよいのだという話に実践的にはなっていくわけです。ですから、接続しつつ切断するなどというぬるいことは言わずに、端的な切断を行えという発想は新反動主義者たちのそれと非常に近しいと言える。

千葉:僕の場合は、接続しつつ切断というより、切断ではあるがそれだけでは生きていけないから接続「も」する、ですね。

小泉:少なくとも民主主義から脱しても生きていけるわけですから、新反動主義のイグジットの強調というか、イグジットを実際に実践してみせるというのは、まさしくドゥルーズ+ガタリの「脱」の運動を実践しておりあっぱれであって、それを例えば「反民主主義者」だと言って嫌ってもしょうがない。その問題提起は受け止めないといけない。(pp.20〜21 )