チェーホフ劇はどこで笑うのか?


 本日の「東京新聞」に、東京両国シアターXで催されている、チェーホフ生誕150周年記念「国際舞台芸術祭」の特集記事が掲載されていた.演劇のみならず、多彩な表現ジャンルを通してチェーホフにアプローチしようと試みていると紹介している.
 6/10(木)モスクワ・エトセトラ劇場の『人物たち』を観劇した.チェーホフ初期の「ユモレスカ」としてまとめられる掌篇小説集から5篇選んで、舞台化したものである.二人芝居で、いずれも、アレクサンドル・カリャーギンとウラジミール・シーモノフが出演。演出は、アレクサンドル・カリャーギン、この人は、国家勲章を受章しているロシアの名優だ.昔、観た映画、ニキータ・ミハルコフ監督作品『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』(原作『プラトーノフ』)でプラトーノフを演じた俳優だ.ずいぶん太ってしまっている.イギリスおよびフランスでチェーホフの講義も行っていて、大学教授の風貌も漂わせる.
 この5作品とも、わが所蔵の『チェーホフ全集』(中央公論社)には収録されていない.だいたい「ユモレスカ」の作品じたい、第14巻の「小説補遺」に6篇載っているのみ.
 演じられたのは、「異国にて」「変わった親子」「ばあさんとグウタラ神父」「判事と犯人」「やっかいなお使い」の5作品.はじめに通訳の女性から話の詳細が紹介され、どこがとぼけているかについて察しがつくような配慮がされていた.ロシア語がわからなくても、だいたいの面白さ滑稽さは理解できた.しかし笑うべきタイミングが瞬間瞬間は読めず、なんとなく楽しく愉快に観たという感じであった.ロシア人や大使館関係者や学者とおぼしき観客も多く、大声で笑う声が起こり、慌ててこちらも小声で笑ったりした.「ばあさんとグウタラ神父」と「やっかいなお使い」は、抱腹絶倒ものだった.
 はじめのカリャーギン教授の解説で、「チェーホフの小説に、あるひとが部屋のカーテンをあけて、ああいいお天気だ、紅茶を入れようか、それとも、首を括ろうか、という言葉を吐く場面があります。ここにロシア的なものがあるんです.これはロシアの風土に長く暮らしてみないとわからないことなんです」とあった。じつに考えさせられたことばであった。『プラトーノフ』のadaptationを試みたことがある哲学者の中村雄二郎氏は、演出家大橋也寸氏との対談で「チェーホフのすごいところは、チェーホフは西洋的な近代劇を書こうとしたのではなくて、近代ロシア人の下意識の意識の劇を書こうとしたんですね」(「『プラトーノフ』考」Libro)と発言している.カリャーギンのことばと照応している.
東京新聞」紙上に、演出家レオニード・アニシモフ氏の「日本の役者が演じるチェーホフは深刻過ぎる.落語がいいのでは」とのアドバイスが紹介されている.やっぱりそうか、観劇した舞台は、落語の小咄だ.立川志らく師匠ならどう演出するだろうか、と思ったものだ.
 劇場を出たところ、ロシア映画のスクリーンに出ていたような美しい女性が立っていた.当日はこの印象が強く残っている.
   http://www.amazon.co.jp/チェーホフ・ユモレスカ—傑作短編集%E3%80%881〉-新潮文庫-チェーホフ/dp/4102065067

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のサルビアグアラニチカ。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆