『風の道』第10号発刊



 大森盛和の「狸蜂庵日乗―ミクロコスモスの世界」は、目次では創作として扱っているが、荷風の『日乗』風に事実を淡々と記しているのではなく、冗舌でいまならブログで発表できる表現ジャンルではないか。「ある外科医師との出会い」が面白かった。六十代の半ばのころ、お寺の墓地の側溝のフタに小石が噛んでいて、歩くたびにガタガタ音を立てて、落ち着かなかったので、フタを開け小石をとり除いて元に戻そうとしたときに、右手中指をコンクリートのフタとフタの間に噛ませてしまった。急いで近くの外科医院に行って傷の不安を喋ったところ、元軍医だった医師は「色をなして怒り出した」。

……六十年も生きてきて、爪ごときものを気にしているなど、もってのほかです。腕の一本、脚の一本が折れたって、それがなんだというのです、とA医師は私の顔を正視しながら言った。これまでも恥ずかしい経験をたくさんしてきたが、このときほど自分をやるせなく思ったことはなかった。完膚なきまでに打ちのめされた。

 こちらもじつは、10月に訪問客を待っていて、何回も外に出ていた際、玄関に戻るときに閉まるドアに右小指を挟まれて出血、痛い目に遭っていた。今は内出血の黒い部分が徐々に爪の上の方の移動中で、消えるにはなお時間がかかりそうである。興味をもって読んだ次第。むろんこの軍医のことばには、〈健康志向〉の現代人への作者の揶揄と批評が託されていよう。しかしこんなもと軍医には診てもらいたくないもの。
「狸蜂庵は四間四方、十六坪の小さな草庵である。私にとって、ひと夏のいのちの洗濯をする場所である」と末尾近くに書かれているが、「いのちの洗濯」などと、どこぞの旅行会社の広告レベルで、およそ文学のことばとは思えないのである。
 澤田繁晴「澤田家の秘密(四)」に、「チェーホフは好かれてよく読まれたということ」に注目し、「チェーホフは典型的な西洋人、ロシア人ではなかったのであろう」、「日本に帰化していたならば、横綱くらいにはなれたことであろう」とある。「横綱くらい」という表記については不問にして、あいかわらずみごとな〈早合点〉の才能に敬意を表したい。かつてのわがブログの記事を再録しておこう。
▼本日の「東京新聞」に、東京両国シアターXで催されている、チェーホフ生誕150周年記念「国際舞台芸術祭」の特集記事が掲載されていた.演劇のみならず、多彩な表現ジャンルを通してチェーホフにアプローチしようと試みていると紹介している.

 6/10(木)モスクワ・エトセトラ劇場の『人物たち』を観劇した.チェーホフ初期の「ユモレスカ」としてまとめられる掌篇小説集から5篇選んで、舞台化したものである.二人芝居で、いずれも、アレクサンドル・カリャーギンとウラジミール・シーモノフが出演。演出は、アレクサンドル・カリャーギン、この人は、国家勲章を受章しているロシアの名優だ.昔、観た映画、ニキータ・ミハルコフ監督作品『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』(原作『プラトーノフ』)でプラトーノフを演じた俳優だ.ずいぶん太ってしまっている.イギリスおよびフランスでチェーホフの講義も行っていて、大学教授の風貌も漂わせる.

 この5作品とも、わが所蔵の『チェーホフ全集』(中央公論社)には収録されていない.だいたい「ユモレスカ」の作品じたい、第14巻の「小説補遺」に6篇載っているのみ.

 演じられたのは、「異国にて」「変わった親子」「ばあさんとグウタラ神父」「判事と犯人」「やっかいなお使い」の5作品.はじめに通訳の女性から話の詳細が紹介され、どこがとぼけているかについて察しがつくような配慮がされていた.ロシア語がわからなくても、だいたいの面白さ滑稽さは理解できた.しかし笑うべきタイミングが瞬間瞬間は読めず、なんとなく楽しく愉快に観たという感じであった.ロシア人や大使館関係者や学者とおぼしき観客も多く、大声で笑う声が起こり、慌ててこちらも小声で笑ったりした.「ばあさんとグウタラ神父」と「やっかいなお使い」は、抱腹絶倒ものだった.

 はじめのカリャーギン教授の解説で、「チェーホフの小説に、あるひとが部屋のカーテンをあけて、ああいいお天気だ、紅茶を入れようか、それとも、首を括ろうか、という言葉を吐く場面があります。ここにロシア的なものがあるんです.これはロシアの風土に長く暮らしてみないとわからないことなんです」とあった。じつに考えさせられたことばであった。『プラトーノフ』のadaptationを試みたことがある哲学者の中村雄二郎氏は、演出家大橋也寸氏との対談で「チェーホフのすごいところは、チェーホフは西洋的な近代劇を書こうとしたのではなくて、近代ロシア人の下意識の意識の劇を書こうとしたんですね」(「『プラトーノフ』考」Libro)と発言している.カリャーギンのことばと照応している.

東京新聞」紙上に、演出家レオニード・アニシモフ氏の「日本の役者が演じるチェーホフは深刻過ぎる.落語がいいのでは」とのアドバイスが紹介されている.やっぱりそうか、観劇した舞台は、落語の小咄だ.立川志らく師匠ならどう演出するだろうか、と思ったものだ.

 劇場を出たところ、ロシア映画のスクリーンに出ていたような美しい女性が立っていた.当日はこの印象が強く残っている.(2010年6/17 記)

   
 評論「千葉びとの古都《奈良・京都》」の竹内清己は、いつ秦恒平論をまとめるのであろうか。気になることであった。

 ゆりはじめ『「洋食屋 アリゾナ」消滅記』の「アリゾナ」については、ブログで「日本文藝家協会ニュース」掲載の短いエッセイをブログに載せている。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20120422/1335081191
        (『「荷風忌」に寄せて:2012年4/22 』)