痛みと病気

東京新聞」5/11夕刊紙上掲載、辺見庸氏連載エッセイ「水の透視画法」の「痛みのめぐみ・“無痛者”の不幸」は面白く読んだ.この連載エッセイについては、「〜のような」という比喩的修辞の多用と、預言者風な物言いにやや辟易するところもあったが、今回は抵抗なく読めた.
 辺見氏は、脳出血後遺症の視床痛が右肩に起こるらしい.医師によれば、末期ガンと並ぶ二大激痛なのだそうだ.痛みは、「まっ赤に焼けた火ばしを肉ごしに肩甲骨の深くまでグリグリと無理矢理突きたてられているようだ」という。音楽の波のように、ア・カプリッチョ(a capriccio=自由に)→アッカニタメンテ(accanitamente=激しい)→アップネーメント(abnehmend=しだいに静まって)→アカレッツェーヴォレ(accarezzevole=愛撫するような)などの経過をたどり、痛みも治まるのだそうだ.そしてその後、「とどこおった血が春の小川のようにからだをめぐりはじめ」、「耐えがたい痛みとじゅうぶんにひきあう」 深い悦びを感じるのだそうだ.「無痛者は不幸だ」と締めくくっている.強靭な心身と、その冷静な観察力にとてもかなわないなと思った.

 兼好法師は、「友とするに悪(わろ)き者」として七つあるとしている。「高く、やんごとなき人」、「若き人」につづけて、「三つには、病なく身強き人」(『徒然草』第百十七段)。たがいにみずからの病気を述べあって、猿の「毛づくろい」的コミュニケーションで多くの時間を過ごすようになっては、人生もおしまいであろうが、(仮定のこととして)病気も痛みも知らずただ根拠なく元気なだけの人物とは、あまり長い時間は一緒にいたくないものである。

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の多肉植物の花(カランコエ属の紅弁慶)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆