文学における〈営業〉

「第十回文学フリマ」が5月23日(日)に、大田区産業プラザPiOで開催されるそうである.わが千葉の寓居からは遠そうで、今回もスルーということになろうが、企画には賛同している.種々雑多なグループ・サークルが参加し、ジャンルも多彩であるなかで、いわゆる純文学系に、どれほど関心が集まるのか測りがたいにしても、〈営業〉活動じたいは否定されるべきでもなかろう.表現&創作の過程で、迎合と妥協さえなければ、結果としての作品あるいは機関誌・同人誌の存在を知らしめようとする試みは、支持したい.
   http://bunfree.net/

 フランス文学の岩松正洋関西学院大学准教授(筆名・千野帽子)が「日経ビジネスオンライン」に書いている文学論(話?)は、面白い.とくに読者との関係で、大衆小説と純文学の小説の存在価値の比較をしているところは、論じたいに新しさはないが、議論の運びが巧みである。
「楽しませるもの、エンターテインするもの」(権田萬治氏)、「最初から狭い範囲の読者を想定して書くのではなく、いわゆる読書人ならばだれでも興味を引かれるような、そういう小説」(逢坂剛氏=高校の1年先輩)、「“純文学”と偉そうに構えているジャンル」に対し、「作家に、引きこもることを許さない。あくまでもエンターテインメントでなければならない」(太田光氏)との三氏の、ミステリーなどの大衆小説称賛は、広く大衆読者に読まれていること、その前提として、〈大衆〉の側に正義があること、いっぽうのいわゆる純文学の小説はその反対、という論旨を土台としている.それに対し、千野帽子氏は、反論する.
『「大衆が正義」なワケがないことくらい、この100年の世界の歴史を見れば、ちょっと頭の働く人間なら〈だれでも〉わかることなのだが。
 「漫画と純文学があればそれでいい」と思っている私のような、大衆文学のわからぬ唐変木は、上記3つの引用のような物言いがあるかぎり、そんな「下から目線」の反抗ポーズが真っ赤な嘘であると言い続けることをやめないだろう。』
 ようするに純文学の小説を面白いと楽しむ読者も存在するという事実を、「下から目線」の批評は見逃しているということだ.また「だれでもが面白いと感じる」小説そのもがありえないことなのだ。
   http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20091117/209947/?P=1

⦅写真は、東京台東区下町民家の紫蘭(シラン)。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆