澤田繁晴『眼の人々』


 文藝・美術評論家の澤田繁晴氏から『眼の人々』(龍書房)を恵贈いただいた。澤田氏の第三評論集である。脳出血の大病を患って「運が悪ければ、自分でそれと意識することもないままにあの世に行ってしまっても何ら不思議がない経験をした」(まえがき)ことが、その後に書かれた論考に影を落としているようである。文藝誌『雲』に発表されたものを中心に編まれているが、取り扱っている対象は、竹久夢二正岡子規芥川龍之介梶井基次郎古賀春江横光利一川端康成の7人で、川端康成のエッセイ「末期の眼」に登場する人物たちということで統一性がある。
 澤田氏の月旦の的確さと洒落たひと言には、つねづね感心させられる。今回も期待は裏切らない。本の感触をたしかめつつ拾い読みしてみると、すでに掲載時に読んでいる文章もまた新しい味わいがある。パラパラ捲って気になる文章が眼に写った。「正岡子規—弟子と友人」のはじめのところ。
……子規・虚子・碧梧(桐)の三人は、当初から俳人になろうと思っていたのではなく、最初は小説家を目指していた。漱石は英文学者になる筈であったが、ひょんなことから小説家になった。四人に共通するのは、人生における紆余曲折である。しかし、この遠回りがなかったとしたら、四人が四人ともかくまで大成していたかどうか分らない。このことから推測できることは、人生には無駄なことは何一つ存在しない、ということである。……(同書p.104)
 まるで人生相談のはげましの言葉のようであるが、そうでははない。「人生には無駄なことは何一つ存在しない」の前に、「表現者にとっては」という前提としての文言が省略されているのである。顧みて人生にはあまりに無駄が多すぎるという嘆きは、まちがっていない。泥田に蓮の花が咲くように、表現において経験された〈無駄〉の数々が華となるということである。
 澤田繁晴さんは、大病の経験を〈無駄〉とせず、「関寺小町」のような「秘曲」完成にむかって精進していくのであろうか。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20130202/1359795122(「澤田繁晴『炎舞』のこと」)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の白木蓮の蕾。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆