今回の『ブッダという男』の盛り上がりを見て、まぁ当然と言えば当然かもしれないですが、田川先生ないし『イエスという男』がかなり広く知られていることを改めて感じ、「田川建三の学問(学問的姿勢)」がなんとかこの国の文化に深く根付いて欲しいと願う僕としては、少し希望のようなものを抱いたり…
— 東谷啓吾 (@higashi_keigo) 2023年12月10日
ミャンマーの仏教勢力がロヒンギャ族の虐殺に対して、これを擁護している件、不殺生戒とのどういう整合的納得をみずからに与えているのか疑問に思っていましたが、ご著書により、上座部仏教および史的な釈迦自身にその「解釈」がすでにあったと知り、目から鱗でありました。さらにじっくり拝読中です。
— 渡辺勉 (@bentsudanuma) 2024年1月21日
お言葉光栄でございます!
— 清水俊史 (@AKBhVis) 2024年1月21日
【ブッダの生命観】
それでは、ブッダの生命観とはどのようなものだったのか。結論的には、後代の上座部仏教の「解釈」のそれときわめて近似しており、次の四つの原理が背景にある。
①殺生は悪業であり、それが善業であることはあり得ない。
②五つの無間業(父・母・悟った人を殺すこと、僧団を分裂させること、ブッダの体から出血させること)を犯すと、来世の地獄堕ちが不可逆的に確定する。
③ゆえに、この五無間業以外の悪業ならば、たとえ幾万の人を殺めても、本人の努力次第では、その報いを受けずに済む。
④逆に。この五無間業を犯してしまうと、その後いくら努力しても、来世の地獄堕ちを回避できない。
このような結論は人によっては受け入れがたいかもしれない。だが、2500年前に生きたブッダは現代人ではない。(P.50)
なるほどかつて大量殺人鬼であったアングリマーラは五無間業を犯してはいなかったので、ブッダから出家を許され、修行に励んで悟りを得たという。また、マガダ国王アジャータサットゥは多くの征服戦争で幾千幾万もの人を殺戮したが、ブッダはそれについては武士階級としての生き方として黙認しながらも、父王を殺している、すなわち五無間業を犯しているので、在家信者としてどれだけ善業を積んでも来世の地獄堕ちは不可避で、現世での悟りは不可能としたのであった。
「本当のイスラム教は平和主義で、テロは一部の過激派が…」という専門家の論調も、安直すぎて素直には肯首し難い。
— 清水俊史 (@AKBhVis) 2024年1月22日
ロヒンギャ虐殺に加担した仏教テロリストもいるが、彼らは仏典解釈(殺業を犯しても善業で打ち消せる)は歴史から見ればむしろ正統的なものだ(拙著https://t.co/Kj6OPG14dt参照)。 pic.twitter.com/EsSzLAam1F