otocoto.jp 10/3(土)午後2:30〜WOWOWライブで、ニューヨークのメトロポリタンオペラ(MET)公演(2019年5月11日)、ブーランク作曲『カルメル会修道女の対話』を視聴。魅了された。ジョン・デクスター演出、ヤネック・ネゼ=セガン(MET音楽監督)指揮のこの舞台は、抽象的でシンプルな舞台装置で構成され、ラスト第3幕のひとりひとりの修道女たちのギロチンによる処刑場面で、「金属の塊が木に落下して衝突する一瞬の音」を生々しく再現している。中心となるのは侯爵家の娘ブランシュで、美形のイザベル・レナード(メゾ・ソプラノ)が歌う。
(イザベル・レナード)
ブランシュがなぜ修道院に入らねばならなかったのか、そこのところは深くは理解しかねたが、カルメル会修道院長(カリタ・マッテラ)が「厳しい戒律のなかに逃避するということではないのでしょうか」とブランシュを試す言葉があって、軽率な選択ではないことを暗示している。バルザックの『ランジェ公爵夫人』では、ランジェ公爵夫人は愛の絶望ゆえに修道院に入るが、この場合は理由がわかりやすい。
感動的だったのは、修道院長クロワシー夫人が臨終間際に、その身体的苦痛と死の恐怖に耐えきぜず、「自分のこれまでの長い修行は何だったのか」と激しく自問の言葉を発するところ。「窓を閉めなさい」とマリー修道女長(カレン・カーギル)が修道女に命じる。「外部の人に聞かれてはまずい」と。全体として「祈り」がテーマであり、この作品じたいがひとつの祈りであるとすれば、このメタ批評こそ作品の深さを保証するものだろう。
仏教(ゴータマ・ブッダ)における「出家」の場合は、どうなのだろうか。かつてブログでとりあげた魚川祐司氏の『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)によれば、
そもそもゴータマ・ブッダにあっては、「一日作(な)さざれば、一日食らわず」⦅『百丈清規(しんぎ)』⦆などという、教えはなく、「解脱・涅槃を一途に希求する者(出家者)たちに対しては、農業であれ商取引であれ、あらゆる労働生産(production)の行為は禁じられる。これは、ゴータマ・ブッダの仏教の、基本的な立場の一つだ」。さらに、『解脱・涅槃を目指す人たちの生活に、恋愛の入ってくる余地はないし、それがもたらすところの性行為、即ち、全ての衆生(生き物)が普通に行うところの「生殖(reproduction)」行為が入ってくる余地もない』との、この「生殖の否定」がゴータマ・ブッダの仏教のもう一つの基本的立場である。
しからば「労働と生殖を行うことで暮らしている存在」である在家者にたいしては、ゴータマ・ブッダはどう説いたのであろうか。内容としては、善行を積んで来世でよりよい生を得ることを説くものであって、「在家者に対する説法というのは」、「渇愛を滅尽して涅槃へと至る」ことまではできない人たちに対する「あくまで二次的な性質のものであったと捉えておくべきであろう」。
渇愛(愛執)を消滅させてしまった修行者(比丘)らは、「労働と生殖」の俗世にはもはや戻れない。「正しく苦を滅尽するために梵行を行ぜよ」とブッダは、出家を願い出た者らに許可を与える。「家を出て家なき状態へと赴く」と聞法者たちに強く勧奨したのである。
……したがって、ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提となっている、「人間」とか「正しい」とかいう物語を、破壊してしまう作用をもつものなのである。
このことは、仏教を理解する上で「絶対にごまかしてはならないこと」であり、またこのことを明示的に踏まえておくことなくしては、ゴータマ・ブッダの仏教のみならず、「大乗」を含めたその後の仏教史の展開についても、その思想の構造を適切に把握することはできないと、私は考える。……(p.37)