『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)を読む(Ⅰ)


 Amazonより、『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)が届く。全8章から構成されている。さっそく第一章を熟読。著者魚川祐司氏は、東京大学で西洋哲学、同大学院博士課程でインド哲学・仏教学を専攻して後、ミャンマー渡航し、テーラワーダ仏教上座部仏教)の教理と実践を学んでいる、いま気鋭の研究者である。遅まきながらFacebook高校同窓会の紹介で、その名と仕事を知った次第。
 議論展開において方法上の二つの前提がある。『パーリ経典を全体として考察の資料として採用し、それに与えることの可能な整合的で一貫した解釈を、「ゴータマ・ブッダの仏教」の内容と考える』ことが一つであり、「過去の文献の記述のみを材料として仏教の解釈を行うのではなく、同時に現代の実践者たちの経験による意見や証言も参考にしつつ、その作業を行う」ということがもう一つである。前者については、いわゆる「古層」に属するパーリ経典がゴータマ・ブッダの「本当の教え」であるとの立場をとらないということであり、後者については、仏教は経典のゴータマ・ブッダ自身が語っているように実践的な思想であるから、修行者の認知に関する一定の理解を求めるであろうということである。
 第一章は、『絶対にごまかしてはいけないこと—仏教の「方向」』とある。ゴータマ・ブッダの仏教が通俗的に「人間として正しく生きる道」を説いている教え・思想なのかと、始めから〈直球〉を投げている。
 そもそもゴータマ・ブッダにあっては、「一日作(な)さざれば、一日食らわず」⦅『百丈清規(しんぎ)』⦆などという、教えはなく、「解脱・涅槃を一途に希求する者(出家者)たちに対しては、農業であれ商取引であれ、あらゆる労働生産(production)の行為は禁じられる。これは、ゴータマ・ブッダの仏教の、基本的な立場の一つだ」。さらに、『解脱・涅槃を目指す人たちの生活に、恋愛の入ってくる余地はないし、それがもたらすところの性行為、即ち、全ての衆生(生き物)が普通に行うところの「生殖(reproduction)」行為が入ってくる余地もない』との、この「生殖の否定」がゴータマ・ブッダの仏教のもう一つの基本的立場である。
 しからば「労働と生殖を行うことで暮らしている存在」である在家者にたいしては、ゴータマ・ブッダはどう説いたのであろうか。内容としては、善行を積んで来世でよりよい生を得ることを説くものであって、「在家者に対する説法というのは」、「渇愛を滅尽して涅槃へと至る」ことまではできない人たちに対する「あくまで二次的な性質のものであったと捉えておくべきであろう」。
 渇愛(愛執)を消滅させてしまった修行者(比丘)らは、「労働と生殖」の俗世にはもはや戻れない。「正しく苦を滅尽するために梵行を行ぜよ」とブッダは、出家を願い出た者らに許可を与える。「家を出て家なき状態へと赴く」と聞法者たちに強く勧奨したのである。
……したがって、ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提となっている、「人間」とか「正しい」とかいう物語を、破壊してしまう作用をもつものなのである。
 このことは、仏教を理解する上で「絶対にごまかしてはならないこと」であり、またこのことを明示的に踏まえておくことなくしては、ゴータマ・ブッダの仏教のみならず、「大乗」を含めたその後の仏教史の展開についても、その思想の構造を適切に把握することはできないと、私は考える。……(p.37)

⦅写真は、東京台東区下町民家のタチアオイ立葵)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆