サムライ(侍)精神について

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▼ところで「サムライ」とはなにか。中世・近世貫いて同じ存在形態であったわけであるまい.かつて読んだ池上英子ニュー・スクール大学社会変動研究所長(2000年当時)の、『名誉と順応ーサムライ精神の歴史社会学』(NTT出版・森本醇訳)を引っ張り出してみた.「日本における最有力階級としてのサムライは、彼ら自身がつくり上げた縦の互恵関係のヒエラルキーのネットワーク、つまり君臣制度の発展とともに出現した」とし、戦士としてのサムライ文化については、「暴力を好むことが名誉あることだということを他の人間にも理解してもらえるようなやり方で、サムライがその武人的名誉文化の特質をつくり上げていったのでなければ、おそらく彼らは貴族の文化的劣位者にとどまったままで、農耕住民に対して権威を揮うにはいたらなかったであろう」。
 徳川幕藩体制の成立とともに、サムライは、幕府と大名家の統治機構(中心は軍事組織)のヒエラルキーの一員としてのみ位置づけられるようになった.戦での出番はほとんどなくなったことから、「このようにして徳川の体制は、なおもサムライの業績志向のエトスを喚起することができたのだが、肉体的な力と忍耐力によって戦場の栄光を求める本能は顕著な変容を蒙って、服装や城内席次の変更といった地味で抑制された争いへと変わったのである」。サムライ文化と儒教との思想的関連では、「卓越した徳川知識人の多くは儒教から受け継いだ論理的熟練を、土着サムライ文化の慣用句(イディオム)に表明された強烈な個人的自律感覚と結合させた」にとどまり、全面的な取り込みをしたわけではなかった。けっきょく、「伝統的なサムライ精神は首尾一貫した思考体系としてではなく、心情、エトス、心性として記述することができる」。まあ、あまりサムライの呼称など使用しないことが賢明であろう.むろんスポーツ競技において、そのことばが指し示す闘う姿勢と精神は求められるにしてもである.▼

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▼池上英子著・森本醇訳『名誉と順応:サムライ精神の歴史社会学(THE TAMING of the SAMURAI)』(NTT出版)の、Ⅵー15「儒学派サムライとポスト儒学派サムライ」の章末「サムライのエトスと国家の危機」を読み直してみた。吉田松陰は、「名誉の慣用句(イディオム)を賢くつくり直すことで、伝統的に特定の社会秩序と同一視されてきた身分ヒエラルキーを突破ることができた」と評価している。この研究(書)では、サムライの名誉の文化について次のように考察し、このことを前提にしてその時代的変遷を追求している。
……名誉が評価されるのは抽象の世界ではなく、名誉ある人びとが所属する具体的な名誉の共同体においてである。サムライの場合は、階層構造を持つこの共同体がまず最初に名誉を算定し、しかる後それを特定の個々人に授けたのである。サムライの名誉共同体は権力構造と深く結びついてはいたが、同時に、名誉のコードと文化的慣用句(イディオム)を共有する一つの象徴的領域としても存在していた。名誉はこの共同体の階層を表示する記号であるとともに、名誉共同体への参入あるいはそこからの排除の基準としても機能する。……(p.23)
 松陰の『講孟餘話』から次の抜粋が紹介されている。
……或ひと問ふ、罪と恥と孰(いず)れか重き。曰く、罪は身にあり、恥は心にあり。身にあるの罪は軽く、心にあるの恥は重し。今草茅韋布(そうぼういふ:在野の人民)の士妄りに朝政を論議し官吏を誹謗するは、分を越え職を踰(こ)ゆるの罪固(もと)より恕すべからず。然れども其の心を尋ぬる時は、或は国家を憂ひ或は道義を明かにする如き、深く咎むべきに非ず。……(p.317)
 たとえ行動が「定められた社会的責任に反する場合」であっても、「その動機が国の将来への真摯な関心からきている限りは、道徳的に悪いということは決してない」。むしろ「自分の政治的意見を表明しない」ことで「魂のなかに恥を抱え込む」ことのほうが、「其の害民に及ぶ」(『講孟餘話』)とし、「草莽」のサムライを激励し政治的行動主義を促したのである。
……サムライの倫理としても儒教の上からしても重要な忠義の問題が、急進的政治行動主義に立つサムライ思想家にとっての難問であった。潜在的な矛盾があることは明白だった—公共的な責任を引き受けたことに由来するサムライの政治上の意見が主人の意思と違った場合、サムライは如何に行動すべきか? この思想的問題に対する松陰の解答は、忠義の徳の再定義を含んでいた。松陰が信ずるところでは、自分の確信にもとづいて主人に対して繰り返し諫言することこそ、本当の忠義の形である。こうして、道徳的には明らかなディレンマも、思慮深いサムライを身動きできなくさせることはない。松陰は書いている。—「君に事(つか)へて遇はざる時は諫死するも可なり、幽囚(牢死)するも可なり、饑餓するも可なり。」松陰は忠義それ自体を否定したのではなく、それが政治的行動主義を制約することがあってはならない、と信じていたのである。……(pp.318~319)▼