室井尚横浜国立大学名誉教授が3/21逝去とのこと。氏の著作では、『哲学問題としてのテクノロジー』(講談社選書メチエ)一冊を読んだのみ。今日技術と情報をめぐって生起しているすべての問題は「意識、生命、物質などを情報の組織化の問題として一元的に捉え、そこに人間が編集的に関与するという、新しい技術が生み出すパラドクスから生まれてくる問題」であり、『これが単なる論理的パラドクスを超えて深刻なのは、言うまでもなく、それらがあらゆる議論を超えて「実現されて」しまうという事実があるからである』としている。このような自己編集的な技術のもたらす問題に対して、依然として「物理的還元主義」では「こころ」の問題は何もわからないのだとの、従来通りの哲学あるいは人文科学的知は自滅するほかはないとする。なぜパラドクスかといえば、「穴の中から自分の身体を自分の手で引き出すこと(ミュンヒハイゼン的パラドクス)」に属す問題だからである。
「テクノロジーの挑戦」として問題を捉え、差し当たって哲学は三つの対応が求められるとしている。(p.132)
◯デカルト的近代二元論と、そこから派生した二つの文化、すなわち自然科学と人文科学の相補的対立といった文化的枠組みを、いまこそ完全に破棄すべきである。
◯テクノロジー自ら自身を編集し、再組織化しうる技術的可能性=「自己編集性」について、哲学的、文明論的考察が緊急の課題であること。→自然に関しての新しい知識を提供するかもしれない。
◯文化と自然、人間と世界、精神と物質などといった伝統的な二項対立を新たな形で言説の中に組み込むこと。すべてが情報の組織化であるという、テクノロジーの挑戦を、それにふさわしい新しい言説の中にしっかりと受け止めることが必要である、と思われる。
しかし、「個人の寿命が数倍に延びたり、身体パーツの一部が人工的なものに置き換えられたりすることは充分ありえるのである。ただし、結局そのことによって人間の孤独や苦しみが癒されることはあるまい」(p.137)と述べ、決して世界の中に「人間」が置かれた条件を根源的に変えるものではないと認識しているのである。