サムライとは


 WCサッカーでの「Samurai Japan」の活躍は、海外メディアでも相当な評価が得られたようだ.予選リーグ第1戦の相手が、あきらかに準備不足のカメルーンであったことも幸いしただろうが、力の蓄積なくして成果はあげられない.ただ名古屋グランパスサポーターとしては、GK楢崎選手とFW玉田選手のピッチでの貢献が観られずに終わって、残念ではあった.本田選手は、グランパス出身なので、成功を祝福したい.ポルトガルの代表監督カルロス・ケイロスは、元名古屋グランパスの監督で、国立競技場でナマ観戦応援している.テレビの映像を観て、なつかしく思った.
 ところで「サムライ」とはなにか。中世・近世貫いて同じ存在形態であったわけであるまい.かつて読んだ池上英子ニュー・スクール大学社会変動研究所長(2000年当時)の、『名誉と順応ーサムライ精神の歴史社会学』(NTT出版・森本醇訳)を引っ張り出してみた.「日本における最有力階級としてのサムライは、彼ら自身がつくり上げた縦の互恵関係のヒエラルキーのネットワーク、つまり君臣制度の発展とともに出現した」とし、戦士としてのサムライ文化については、「暴力を好むことが名誉あることだということを他の人間にも理解してもらえるようなやり方で、サムライがその武人的名誉文化の特質をつくり上げていったのでなければ、おそらく彼らは貴族の文化的劣位者にとどまったままで、農耕住民に対して権威を揮うにはいたらなかったであろう」。
 徳川幕藩体制の成立とともに、サムライは、幕府と大名家の統治機構(中心は軍事組織)のヒエラルキーの一員としてのみ位置づけられるようになった.戦での出番はほとんどなくなったことから、「このようにして徳川の体制は、なおもサムライの業績志向のエトスを喚起することができたのだが、肉体的な力と忍耐力によって戦場の栄光を求める本能は顕著な変容を蒙って、服装や城内席次の変更といった地味で抑制された争いへと変わったのである」。サムライ文化と儒教との思想的関連では、「卓越した徳川知識人の多くは儒教から受け継いだ論理的熟練を、土着サムライ文化の慣用句(イディオム)に表明された強烈な個人的自律感覚と結合させた」にとどまり、全面的な取り込みをしたわけではなかった。けっきょく、「伝統的なサムライ精神は首尾一貫した思考体系としてではなく、心情、エトス、心性として記述することができる」。まあ、あまりサムライの呼称など使用しないことが賢明であろう.むろんスポーツ競技において、そのことばが指し示す闘う姿勢と精神は求められるにしてもである.

東京新聞」7/3紙の記事に、山梨県甲府の寺の墓銘に「坂本龍馬室(妻)」と刻まれているという北辰一刀流の千葉さなは、生涯独身とされてきたが、じつは、龍馬七回忌のあと(明治7年)、元鳥取藩士と結婚していた事実が、史料によって証されたとあった.しかし相手の身持ちの悪さもあって10年ももたず離縁しているとのこと.結婚受諾を聞いた父親の千葉定吉は、「おまえの命はかつて龍馬の霊前にささげようとしたものではなかったか」などと激怒し、さなを切ろうとしたそうだ。これがラスト・サムライなのかもしれない。しかし、この史実が判明したところで、千葉佐那(さな)=貫地谷しほりのイメージは消えない.いやむしろ、より近くなったかもしれない. 
  http://www.city.adachi.tokyo.jp/003/d10100169.html (千葉灸院)
  http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20100405-614388.html (佐那の墓)
  http://www.sponichi.co.jp/society/news/2010/04/25/01.html (貫地谷効果)
  http://ameblo.jp/kanjiya/entry-10408974604.html (貫地谷佐那です)
  http://news.www.infoseek.co.jp/entertainment/story/menscyzo_17Jun2010_2663/ (一途?)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のコンロンカ(崑崙花)=ムッサエンダ(Mussaenda)。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆