君主制より共和制を是とする立場は多いが、共和制は、共和を担う主体、たとえば国民や民衆を"君主"の代替にするだけであり、烏合の潜在的君主制とでもいえよう。その意味では、共和制は君主制の問題を解決出来ない。西欧だと、プルードンがいうようにルソーのような思想では駄目だということでもある。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) 2023年3月17日
ルソーの人民主権論を君主政より共和制というレベルで理解するのは間違いだと思います。「人民」はいかなる統治権力にも先立ち、統治を成立させる条件であり、こうして「私」の集合には還元されない「われわれ」の次元を想定しない限り、政治など存在しない、というのがルソー的認識かと。
— spartacus (@accentdeverite) 2023年3月18日
もう少し言えば、「人民主権」という言葉はそもそも撞着語法であり、これを「君主=主権者」の代わりに「人民」や「国民」を置いたと理解したのでは、ルソーにおいて、この撞着語法が「主権」概念そのものを換骨奪胎するものであったことが見失われてしまう。
— spartacus (@accentdeverite) 2023年3月18日
▼昔月刊『東書高校通信』(東京書籍)に載せた、ルソーの『社会契約論』についてのみずからの考察(未熟・若書き)を思い出した。▼(ブログ『ルソーの「一般意志」と「特殊意志」』2014年12/14記 )
ルソーの『不平等起源論』が凄いのは、所有権を問題化し、「私のもの」と「あなたのもの」の存立条件を問いながら、「私」や「あなた」の存在の手前にまで遡り、「私」や「あなた」を歴史的に構成されたもの、生成したものとしてとらえるところだ。震撼させられる。
— spartacus (@accentdeverite) 2023年3月27日