メディアが煽る〈怒り〉のパフォーマンス

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 筒井清忠編『大正史講義』(ちくま新書)の、筒井清忠氏の「はじめに」が興味深い。1905(明治38)年9/5、日露戦争講和条約に反対する国民大会が暴動化したもので、吉野作造は「民衆が政治上に於いて一つの勢力として動くという傾向の流行するに至った初め」がこの9月であるとしている。
 この暴動鎮圧で軍隊が出動し、戒厳令が施行され、騒擾が全国に波及した。死者17人、負傷者数千人の事態となった。どうしてこういう事態に発展したのか。

 マスメディアでは日本軍の圧倒的勝利ばかりが伝えられ、国民は限界に来た国力を知らされていなかったため民間から出される過大な賠償等の要求が当然のように受け取られ、多くの戦死者(当時10万人と言われた)・重税等の桎梏下、それを獲得できなかった小村寿太郎全権らに対して怒りが爆発したのである。
 この事件をめぐるマスメディアと大衆の関係について「調査しえた各種の地方新聞によるかぎり、まず注目すべきは運動の組織には必ずといってよいほど、地方新聞社、ないしはその記者が関係していることである。新聞は政府反対の論陣を張り、あるいは各地の運動の状況を報ずることで運動の気勢を高めただけではなく、運動そのものの組織にあたったのである」(松尾尊兊)ということが指摘されている。(p.12)
 

 
 大衆の政府に対する〈怒り〉のパフォーマンスがメディア(新聞)によって煽られ、〈怒り〉が増幅していく展開は、大正から現代まで貫かれているお馴染みの光景ではないだろうか。