原始・古代における共同幻想


 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20171114/1510643553(「思想史の方法:2017年11/14 」)
 仲正昌樹金沢大学教授の『〈戦後思想〉入門講義・丸山眞男吉本隆明』(作品社)の後半、[講義]第4回〜第6回の「吉本隆明共同幻想論』を読む」を読了。気まぐれな読書である。現代思想に関して、仲正昌樹氏の考察と解説は広い視野を与えてくれ、いつも大いに勉強になる。
「物質的な生活形態ではなくて、〈共同幻想〉こそが国家の本質である」とする吉本隆明共同幻想論においては、〈夫婦〉ではない、〈兄弟〉と〈姉妹〉の間の〈対幻想〉的関係が、狭義の家族から部族的共同体への空間的拡大をもたらしたのであり、その〈対幻想〉が、安定した国家レベルの〈共同幻想〉が成立する大前提となっているのである。 

 いずれにしも、農耕土民が押し付けられた、あるいは、元から抱いていた〈共同幻想〉が、大和朝廷の下で統一された部族社会全体の〈共同幻想〉に仕立て直されるわけです。どうして、支配者である大和朝廷が土着民の〈共同幻想〉を、自分たちを含む全体の〈共同幻想〉にしたのかというと、そうしないと、社会が二つに分断されてしまうからです。ただし、支配者としては自分たちが「罪」を負っていることにしたくない。そこで弟である素戔嗚が姉である天照に対して犯した罪、農耕土民の代表である素戔嗚が、天の支配者=大和朝廷に対して犯した罪という形にしたわけです。素戔嗚が壊したのは、田んぼなど、農耕関係のものなので、理屈が合わない気がしますが、先ほど見たように、神話の個々の要素ではなく、ゲシュタルト(基本にある構造)だけが問題だとすると、配役面での矛盾は気にする必要はないかもしれません。(p.326)

 吉本共同幻想論では、氏族制が部族社会の統一国家に転化する過渡期に個人〈倫理〉の問題があらわれるとする。その場合のきっかけも、サホ彦とサホ姫の例のような、〈夫〉と〈兄〉との矛盾する〈対幻想〉的関係、そして日本武尊ヤマトタケル)とその父景行天皇の例のような〈息子〉と〈父〉の〈対幻想〉的関係など、〈対幻想〉なのである。
 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 古事記 現代語譯 古事記(「サホ彦の叛亂」「ヤマトタケルの命の西征」)

 サホ姫の場合、まさに兄との間に〈対幻想〉のせいで、〈共同幻想〉との間に葛藤が生じたわけです。日本武尊の場合、男の親子の間の〈対幻想〉が不安定だったことから、彼は父が代表する国家共同体から排除されます。フロイトが想定しているように、人間の自己がエディプス・コンプレックスのような性的関係性を通して形成されるのだとすれば、個人の倫理的な決定が直接・間接的に、他者との〈対幻想〉によって規定されているのは当然ということになるでしょう。これまで見てきたように、〈対幻想〉は、〈自己幻想〉と〈共同幻想〉を媒介する役目を果たしますが、その逆に、〈共同幻想〉から個体を分離して、自らの〈倫理〉的な基準を選択すべき立場に追いやることもあるわけです。(p.337)

 第6回の「質疑応答」の最後のところで、仲正昌樹氏は、「『共同幻想論』は幸いなことに、古代王朝の成立のところで終わっている。その時に成立した共同幻想が、現代日本人のメンタリティにどう影響しているかについては、吉本はあまり突っ込んだ議論していません。別に吉本の理論的枠組みに拘ることなく、日本人が国家に対して抱いている、暗黙の信頼感をきちんと分析した方がいいと思います」としている。エッセイか小説かで追究したいものである。