女性落語家もあってよい

 http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2018011402000171.html

                        (同紙から
 フェミニズムとポリコレを情報商品差別化の一つとしている、東京新聞らしい記事である。林家ぼたんと川柳つくしの高座は、かつて女流落語の会で聴いている。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20111025/1319524109(「女流落語の会:2011年10/25 」)
 林家ぼたんの落語はその後真打ち直前、文京区湯島天満宮二階座敷会場での「ぎやまん寄席」で聴いている。面白かった。Facebookでのつながりもあり、挨拶を交わしている。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20150908/1441690473(『「ぎやまん寄席」を聴く:2015年9/8 」)
 立川志らく師匠は、「彼女たちを否定するつもりは毛頭ないが、言えることは、落語は女性には向いていない。何故か? 答えは簡単である。落語は全て男の目から見た世界だからだ」(『全身落語家読本』新潮選書2000年9月)としているが、(同書で)エールも送っているのである。

 女の視点でとらえた「大工調べ」なんて面白そうじゃないですか。女の生理、感覚ならばあの喧嘩っ早い棟梁と因業大家をどう描くか。ひょっとして男の落語家には思いもつかない描き方をするかも知れない。もっとも、本当に巧ければ男も女も関係はないんだけどね。リズムとメロディがしっかりしていれば女だろうが、十分聴ける。中途半端に己れを出そうとするから現在の女流落語家の噺は聴けないのである。噺を作り変える才能がないのなら、徹底的に稽古をすべきだ。勿論、魅力あるメロディが生まれるように人間性を豊かにする努力はしなくてはならないけれど、血へどを吐くぐらいの稽古が必要だと思う。