「文人」のルサンチマン


 仲正昌樹金沢大学教授の『ハンナ・アーレント「革命について」入門講義』(作品社)をじっくりと読み進める。アーレントの原著の論理展開は、用語の使用法が独特だったり、混乱があったりで、仲正教授の講義も慎重に用語の意味の整理をしながら進められている。
文人」についてのところが面白い。アーレントにおいて、「統治に関わる専門的知識、リテラシーを持った専門家」である「知識人」に対し、『最初は宮廷やサロン向けの文筆活動をしていたけれど、そうした場から次第に身を引き、「政治」とも「社会」とも距離を置き、自由に思索するようになった教養人たち』が「文人」とされるようである。具体的には、モンテーニュパスカルモンテスキューなど。「文人」たちは、貧困から自由であったけれど、公務に関与できないという意味で暇にしていることを苦痛に感じている。ヨーロッパの「文人」たちは、古代の公的自由を勉強したけど、それを実践として経験することができなかったので「幸福」を感じられなかったいっぽう、アメリカ人にとっては「公的自由」と「公的幸福」が不可分に結びついていたのだとのこと。ヨーロッパの「文人」たちは、「私的領域の隔離された無名状態」において「公的自由」について考えようとしたわけである。
……

 厄介なのは、公的あるいは政治的自由にたいするこの情熱が、おそらくそれ以上に熱狂的であるけれども政治的には不毛な、主人にたいする熱情的憎悪、つまり抑圧された人の解放にたいする渇望とあまりにも簡単に混同されるという点である。このような憎悪は、疑いもなく歴史が記録されはじめたのと同じくらい古く、あるいはそれ以上に古いかもしれない。それはけっして革命をもたらさなかった。

 先ほどの「文人」の私的状態への隔離との文脈的繋がりが分かりにくいですが、恐らく、引きこもった状態で「公的自由」について悶々と考えているうちに、権力者に対する憎悪が募っていき、権力者を倒そうとする願望が、「公的自由」と勘違いされるようになった、ということでしょう。現代日本の左翼系のツイッタラーやブロガーの言動を考えると、何となく分かりますね(笑)。……( p.162 )
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20140114/1389701075(「映画『ハンナ・アーレント』鑑賞:2014年1/14 」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110716/1310805282(「仲正昌樹教授に学ぶ(review二つ):2011年7/16 」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110729/1311904161(「仲正昌樹教授に学ぶ(2)&付録:2011年7/29 」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20130926/1380172885(「思想史の方法:2013年9/26 」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20131120/1384947882(「階段に手摺を設置・『マキァヴェリアン・モーメント(The Machiavellian Moment)』:2013年11/20 」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20131214/1386999269(「〈運命の逆転〉の世界:2013年12/14 」)