仲正昌樹教授に学ぶ(review二つ)

1)『「不自由論」−「何でも自己決定」の限界』(ちくま新書)は、現代思想・哲学の最前線の問題関心に触れられ、自らのあり方を見直すきっかけを与えられる。それこそ著者の期待する「哲学の分り方」ということである。近代ヒューマニズムは、普遍的正義を希求して人間性を尊重する思潮であるが、これはソ連社会主義の例でみれば、マルクスが人間の類的本質であるとした労働をしない者=ブルジョワジーおよび、真のプロレタリアートになり切れていない者を排除してしまう。
『これは、戦争や流血の衝突に限ったことではない。日常生活においても、社会的公正の原理としての「正義」を貫くことは、結果的に、「善人」の目的実現のために「悪人」の行動の自由を制約したり、資格停止すること、場合によっては、「人間」の範疇から放逐することにつながる。哲学や思想が、普遍的な「正義」の基準を練り上げようとすれば否応なく、そうした「人非人排除の論理に加担することになるわけである。』
 守るべき中心的なもの=善と、それから逸脱するもの=悪をはっきり分けて、あくまでも前者を純粋に追求しようとする発想法が、「二項対立」で、これを「脱構築」(デリダ)しなければならないのは、排除の悪循環を断ち切るためなのである。現実の「二項対立」関係は、実は前提を共有しているのだとの、仲正氏の指摘にはなるほどと思った。
 近代ヒューマニズムが尊重すべきとした「人間性」なる概念も、歴史を超越した抽象概念ではなく、著者の強調によれば、ハンナ・アーレントが『人間の条件』で詳説したように、人間生活の動物的部分をすべて私的領域の闇の中に押し込んで、共通の関心をめぐって自由に活動=言語によるコミュニケーションを行なえた、古代ギリシアのポリスにおいてこそ成立したものなのである。したがって、世界中に拡大できる概念ではなく、古代ギリシアを文明の淵源にもった特殊ヨーロッパ的概念であることになる。中世、近代への歴史の推移とともに、もともと私的領域のことであった経済的利害の要素が公的領域に混入して、社会的領域が活動の主要な舞台となった。アーレントによれば、ポリスで成立した「人間性」の特性は、「多元性=plurality」であり、互いの意見の表明によって見解の相違が明らかとなる、そこでいよいよ言語を駆使して説得に努めるほかはないという、ポリス共同体における多元性である。しかし「利害の調整」のみが問題となる「経済」が中心となった近代の市民社会ではこの多元性は成立しない。
 西欧近代における「人間性」の普遍性が批判される時代に「差異のポリティクス」と総称される、フェミニズム、ゲイ・スタディ−ズ、カルチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアリズムなどの思想潮流が盛んになってきた。仲正氏によれば、「同情する者/同情しない者」(アーレント)の二項対立をつくり、後者を排除していったフランス革命社会主義革命などと同じく、逸脱する仲間に不寛容になる場合も多いとすれば、「差異のポリティクス」も西欧近代の普遍主義的な人間観を「縮小再生産」したにすぎないことになる。
 現代思想の最前線となったアメリカでは、アンチ・パターナリズム(温情的干渉主義)であるリバタリアニズム自由至上主義)とコミュニタリアズム(共同体主義)の二つの対立軸が成立しているが、「普遍的理性」に根ざした「普遍的正義」の原理を拒絶している点で共通している。実際には個人と共同体との境界線はいつも自明であるとは限らない。あらゆる共同体的文脈から解放された個人などという存在は幻想である。
 紹介されている法哲学者ドゥルシラ・コーネルの「イマジナリーな領域に対する権利=right to the imaginary domain」という考え方には感動した。われわれの自己イメージは、幼児期に出会った他者を鏡として形成され、他者の帯びている共同体的要素に応じて文化的規定を受けている。リベラリズムリバタリアニズムの立場では、強制から自由に判断すれば、自律的自己決定とされるが、しかし、自己の関わってきたおよびいま関わっている共同体的文脈からまったく自由に判断することなど不可能なのである。ある生い立ちから売春婦になっている女性に、ただちに「男どもを告発する運動」に参加せよ、といっても決定できる自己が存在しない。
『あらゆる既成のアイデンティフィケーションの文脈から“自由”に「自己」が選択できるのであれば、それに越したことはないが、それらの文脈がすでに各自の身体に刻み込まれていることを無視して、無条件の「自己決定」を提唱すれば、かえって不自由な状況を作り出してしまう。「イマジナリーな領域」における「自由」な「自己」(再)想像の権利が保護されていない限り、政治や経済の領域における「自由な主体性」に基づく「自己決定」は、本当の意味では成り立ち得ない、というのがコーネルの議論の骨子である。』
2)『〈宗教化〉する現代思想』(光文社新書)は、著者の個人的理由もあってとくに「サヨク(左翼)」的言辞・行動を、「哲学史的」に酷評したものである。科学的に立証できない「形而上学」的前提に無自覚なまま、「共同体的」に共有している「理性」あるいは「共感」をもたない者を攻撃・排除しているということで、この知的姿勢を批判している。かつて吉本隆明氏が、真理なるものが党派性をもって主張されるときの危険性を警告したことを思い起こさせる。もっとも、仲正氏は、みずからの「統一教会」入信および脱会の経験を踏まえての論述なので、自己教祖化は避けられている。哲学史・思想史の知見が得られるとともに、なるほどと思い当たったり、反省させられたりする書である。読む者の立場によっては、議論そのものを黙殺してしまうかもしれない。おそらく仲正氏は、そのあたりのことは予想しているはずである。
 理性をもった自我によってあるべき世界の構築を構想する近代哲学およびその延長にあるマルクス主義の考え方、そしてそれらを西欧のロゴス中心主義として批判するポストモダン左派も、その哲学史・思想史的源泉であるプラトン哲学とキリスト教の思考のタイプ=二項対立図式を共通にしている、と仲正氏は、くり返し論じている。プラトンの『国家』で展開される有名な「洞窟の比喩」についての考察も、眼から鱗といった感じであった。
『しかし、これらはあくまでも比喩であり、物理的な洞窟や鎖ではないので、元囚人が本当に外の世界で“本物”を見たか否かを確証する術はない。プラトンソクラテスは、自らが「善のイデア」を見た「哲学者」の立場に立ったつもりになって語っているので、鎖から解放された元囚人の味方をしているのは当然だが、プラトンソクラテスの発言自体が正しいという絶対的な保証はない。彼が本当に「善のイデア」を見て、すべてを語っているのでなければ、話は成り立たない。プラトンソクラテス自身が、「善のイデア」を見たつもりになっている狂人かもしれない。』
 移民労働者、ニート、フリーター、ホームレス、ストリート・パフォーマー、さらには、オタクや「腐女子」などの弱者とされる者を「サバルタン(subaltern=従属者)」(スピヴァック)として、抵抗・〈革命〉のポテンシャルを見ようとするポストモダン左派の考え方は、「近代/反(脱)近代」の二項対立図式にはまっていて、けっきょくは「前者=偽/後者=真」とひっくり返しただけである。
『“非西欧的なもの”を神聖視しようとするまなざし自体が「西欧/非西欧」の二分法に基づいている点で既に“西欧的”なのである。』
 このあたり、かつて福田恆存が、「ものごとを対立的に見る西洋的思考より、対立的には見ない東洋的思考のほうがすぐれている」と鈴木大拙が述べたことに対して、「それ自体が西洋的対立的思考だ」と批判したのを思わせる。
 第6章「内面性の形而上学」のところは感動した。自分のことばで考え表現していると思っていても、実は誰かがどこかで書いたことをなぞっているだけかもしれないのである。新宗教のマインドコントロールを嗤うことはたやすい。しかし、社会的に無自覚なマインドコントロールもありうるということなのである。私憤と公憤をみずから混同してしまうと、流布している正義のエクリチュール(書きことば)を、自分の内心からの怒りの声(パロール=話しことば)と勘違いしてしまう。そのエクリチュールの議論に客観的根拠が欠けている場合、まさに形而上学的な支配といえよう。昨今の日本官僚に対する罵声や論調などに典型的である。心したいところである。
デリダが「音声中心主義」として問題にしているのは、西欧的な「主体」の“内”にあまりにも“自然”と定着してしまって、なかなかそのエクリチュール性を認知できないようになっている根元的なエクリチュールのことである。あまりにも“自然”と「内面」に定着しているので、デリダのように「パロール」の隠れたエクリチュール性を暴き出そうとする哲学者も含めて何人にも、自分の考え方のどこまでが根元的なエクリチュールに感染しているのか分からない。』
 むろん賢明な読者は、この著者のエクリチュールに感染してしまっているかどうかの自己点検も、怠ってはならないのである。
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町を逍遥するアゲハ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆