国体論と国家神道との融合


 政治学中島岳志東京工業大学教授と、宗教学者島薗進上智大学特任教授との対談本『愛国と信仰の構造』(集英社新書)を読んだ。明治維新から第二次世界大戦までがおよそ75年、戦後も近く75年の時間が経とうとしている。宗教的心情と思想、そしてそれと関連して日本の〈伝統〉と国家のあり方をめぐる議論が、この二つの75年は、重なるような経過を辿っているのではないかとの歴史ー現状認識を前提に、互いの問題関心と専門領域をたしかめつつ討論している。
 中島氏の問題関心は、「知的な自己探求で悩む教養青年」を意味する煩悶青年たちの多くが、どうして親鸞主義(思想)や日蓮主義(思想)を経由して昭和維新テロや全体主義に身を投じていったのか、ということで、それはさらにすさまじく流動化と個人化が起きている、現代の居場所なき煩悶青年をめぐる状況を解明することにつながるだろうと考えている。
 島薗氏は、宗教ナショナリズムが復活しつつある現代日本を立憲デモクラシーの危機の時代として捉え、明治維新にまで遡って「日本の宗教と国家デザインの変遷を考えるべき」と提言している。両氏の現状認識に関しては保留するとして、歴史事実について知ることが多く、また「宗教」という言葉の再定義を求めて討論しているのは共感できた。
親鸞主義の「寝転がり方」:親鸞悪人正機説には「造悪無碍(ぞうあくむげ)」、すなわちモラル無視で何をしてもいいと受け取られてしまうという難問が伴います。/要するに、一歩間違えると「寝転がる思想」になってしまう。この場合の「寝転がる」とは、社会倫理的な意識を捨てて大勢順応に居直るという意味です。「寝転がる思想」は、建前を嫌う日本の思考様式と関わっていて、私小説文学にもよくあらわれています。トルストイ主義や社会主義に傾倒した青年たちが、国家権力の抑圧に直面して転向すると、親鸞に惹かれる例が少なくありませんでした。:島薗(pp.66~67)
◯三井甲之(こうし:1883~1953)の親鸞主義:三井甲之の論理の中心には、他力思想があります。つまり、計らいを超えた弥陀の本願という他力にすがることが、彼らの考えの中心にある。/しかし、どこかでこの弥陀の本願が天皇の大御心へとすりかわっていくんですね。この天皇の大御心に随順して生きていくことが信仰である。そういうロジックが出てくるわけです。/前章で私は、右翼思想の中核に、すべてを天皇の大御心にお任せすれば世の中の政治はおのずとうまくいくというユートピア主義があることを指摘しました。そして親鸞主義は、この古代回帰のユートピア主義と非常に結びつきやすい構造があるように思うのです。:島薗(p.68)
丸山眞男橋川文三丸山眞男よりも、橋川文三の議論のほうが戦前の超国家主義の本質を捉えていると私は考えています。ただ、丸山と橋川ふたりの議論を重ね合わせることで、ナショナリズムと宗教の相乗効果を読み解けるのではないかと思うのです。:中島(p.83):この煩悶が、社会や世界と結びつくと、国家を超えた何かと一体性を求めるような思想となる。つまり、煩悶青年たちが人生論的な煩悶を乗り越えるために、国家を超えた形で宇宙と一体化するというイデオロギーとして出てきたのが超国家主義であって、昭和の全体主義もその一環として見直さなければ解けないのではないかと(※橋川文三が)言ったのです。:中島(p.83)
親鸞思想の近代的解釈の功罪:末法の世ではもう正法は成り立たない社会になっているので、ブッダ本来のダルマ(法の真理)を社会に行き渡らせるということはあり得ない。そこで、なおかつ仏法の真理を実現するとすれば、一人ひとりの実存的な決断というところにいく。そうすると、個の実存と、戒律を媒介として実現するような社会に向き合う超越性の次元は、切り離されてしまう。こういうことが浄土教では起こりやすいわけです。:島薗:(pp.150~151)
◯王政復古と日本儒教尊王論に大きな影響を与えた後期水戸学は、そもそも儒教を背景にしています。国体という言葉も後期水戸学の会沢正志斎が1825年に出した『新論』の冒頭で、「国体」という章を掲げ理論的に体系化し、その後の展開を方向づけたと言われていますから。/ただ、日本の儒教は、元来の中国の儒教とは少し違った形で、発展してきました。もともとの儒教では、祖先や親を敬う「孝」が、君臣間の徳目である「忠」よりも優先されます。それに対して、日本の儒教では、祖先への「孝」よりも君主への「忠」のほうを重視する傾向が強くありました。/ですから、維新という運動も、天皇に対する忠誠を掲げる復古であり、革新であると儒教的に理解されていたのではないでしょうか。:島薗:(pp.36~37)
◯日本仏教と葬式:お坊さんたちに申し上げたいのは、葬式を一生懸命やること、法事を一生懸命やることのほうが日本仏教にとってまずは重要だと。なぜなら、葬式や法事は死者との出会い直しの場であるからです。法事というのは、死者との待ち合わせの日だと思うのですよね。あの日になると死者と会える。そういう出会い直しを媒介する僧侶が力を発揮する社会がもう一回来てほしい。何も新しいことばかりやるんじゃなくて、伝統的にやってきたことをちゃんとやるということにも目を向けることが大事だと思うのです。:中島:(pp.186~187)
◯「一なるもの」と「多」:私自身はポリフォニー(多声)という考え方に共鳴していまして、多様なものが存在すること自体を受け入れ、かつ一致できるものを最大限求めていくという立場があり得るのではないかと考えています。これは日本が第二次世界大戦—私はアジア太平洋戦争と言いたい感じですが—の中から得てきた経験ともつながります。:島薗:(pp.214~215)
◯現代のナショナリズム:現在の日本で天皇に対する熱狂的な信仰はないと申し上げましたが、しかしその代わりに、中国や韓国への対抗意識から、広範囲な層にわたってナショナリズムの高揚が見られます。そしてそのナショナリズムを政治的に活用しようという動きが露骨になってきている。そこに、国家神道的な思想が動員の道具とされているわけです。:島薗:(p.256)