橋川文三没後30年

 思想史家の橋川文三(ぶんそう)が亡くなって30年の命日を迎えた。熱心に読み込んだという記憶も自信もないが、書斎の棚を眺めれば、けっこう愛読していたことが思い返される。吉本隆明あるいは花田清輝などと別で、講演その他で直接肉声を聴いたことはない。

 昨今の論調を見聞きしても、日本浪曼派をめぐる考察ほか、橋川文三の問題提起は有効なのだろう。いま読み返すほどの気力と関心はないが、手にした『現代知識人の条件』(徳間書店)所収の「丸山真男批判の新展開—吉本隆明氏の論文を中心に」は面白い。
……私もまた全体として丸山のファシズム論にはある種の反抗を禁じえない。端的にいえば、それは「大衆」をすどおりして再びわれわれに「仮構」を強いるであろうからだ。しかしまた、吉本も認めるように、丸山はその「仮構」を犯すことによってはじめて日本ファッシズム論に比類のない視座を構築しえた。そこには、徂徠の発見とは別に、ウェーバーマンハイムからボルケナウにいたる西欧学問史上の体験が組みこまれている。この点をやや飛躍的にいいかえれば、吉本をして吉本たらしめた戦争体験に当るもの—つまり丸山をして丸山たらしめた原体験は、その知識人的「仮構」によってはじめて「体験」たりえたということである。丸山は歴史における個体としての自己を禁欲し、虚構化することによりはじめて生身の個体として存在している。それはあたかも、丸山の異常なほどの愛好の対象である音楽—たとえばバッハのそれの存在様式に似ている。そこでは吉本のいうように、丸山は「学者」でもなく、「思想家」でもないのである。……(同書pp.207~208)
 http://sankei.jp.msn.com/life/news/140717/art14071712010006-n1.htm(『先崎彰容:橋川文三「あの戦争」を問い続ける意味』)