ナショナリティーとナショナリズム



 松本健一氏は、ナショナリティーとナショナリズムとの、重なるところと重ならないところを真摯に追究した思想史家だった。ご冥福を祈りたい。
 わが書架からかつて熱心に読んだ、菅孝行氏との共著二冊本『対論・共同体のゆくえ』『対論・ナショナリズムのゆくえ』(第三文明社)と、『三島由紀夫二・二六事件』(文春新書)を取り出してみた。「ナショナリズム論—排外性の問題」で、松本氏が語っている。
松本:大衆の生活は、イデオロギーによって持続されるわけじゃありませんからね。過去の歴史を見ても、戦争で一番強いのは、民族的なエトスをナショナリズムとしてイデオロギー化しないレベルでの、ということは、ナショナリズムがパトリオティシズム(郷土愛)と密接に結びついた中国の抗日戦争とかベトナムの抗米戦争とかですものね。ナショナリズム帝国主義と結びついた形では、力の強いものが勝つという力学が証明されるだけだ。日米戦争なぞいい例ですがね。しかしまあ、そういう民族的なエトスに立脚した形でナショナリズムの歴史的な使命ってものがあって、それなりに役割を果たしてきているということが、現実にはあるわけですね。ただ、ほとんどの民族が国家形成を終わって抵抗の対象をなくした段階で、今度逆に国民のナショナリティーを保持するためには、国家が外国から不当な屈辱を受けてはいけないとか、経済資源を確保するためという形の、国家主導の戦争をする。
:そうですね。ネーションが必要だ、ネーションとはこの国家、いまある国家体制そのもののことである。これを守らなければいけないと、こういうふうになってくるわけです。
松本:だから国家体制の保持、護持に今ナショナリズムを使っているわけでしょう。国家主義になるのです。……(『対論・ナショナリズムのゆくえ』pp.124〜125)
 周知のように、北一輝の研究でも斬新な視点を提供したようである。その実績について未読であるが、『三島由紀夫二・二六事件』に面白い記述があった。
……このとき、北一輝が書きはじめた「法案」の巻一が「国民ノ天皇」である。この巻一のタイトルそれじたいに、北の革命思想が明確にでているだろう。なぜなら、明治国体論ひいては戦前日本の国体イデオロギーが、「天皇の国民」および「天皇の国家」と要約されるものであったからだ。北はこれに対して、「国民の天皇」すなわち戦後の象徴天皇制にちかい構想と「国民の国家」の体制を対峙させていたわけである。
 北のそこでの天皇に対する規定は、
 天皇ハ国民ノ総代表タリ
 というものだ。これは戦後の『日本国憲法』第一条にある、
 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
 にきわめて近似的である。ともかく、北一輝が革命の理想として描いていた国家デザインは「天皇の国家」もしくは天皇制国家の変革にあり、「国民の国家」すなわちネーション・ステイトの実現にあったことは、明らかであろう。……(同書pp.118〜119)



「日の丸・君が代」の話 (PHP新書)

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