大澤社会学における多文化主義とナショナリズム

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 大澤社会学では、前提となる認識が根底にある。
1)多文化主義のような普遍主義は、あるところで特殊主義としてのナショナリズムに反転・逆立してしまう。戦前日本にあっても、「近代の超克」が論議される直前は、多文化主義的な思潮であったのだ、ということ。

2)資本主義化とは、世界における経験領域の普遍化のことなのである。

3)現代における根本的な問題性とは、超越的な第三者の審級の不在である。

 大澤真幸氏の大著『ナショナリズムの由来』(講談社)は、現在も完読していない。議論の大体の骨子はわかっているので、もういいかという感じである。

 氏によれば、ナショナリズムとは、ネーション(民族、国家)を尊重する思想・規範の一形態である。ネーションの定義が必要であるとすれば、これはトートロジーであって、内容がない。ネーションは、少なくとも、次の二つの条件を満たす政治的共同体である。

1)生活様式の同一性に基づく自生的な単位であること。

2)内部のコミュニケーションが直接の対面可能性の範囲を大幅に越えて拡がっており、そのような可能性とは無関係な抽象的な統一体と認識されていること。

 ネーションを「共同体」であると述べたのは、ネーションが、意図的に組織されたものではなく、歴史の展開の中で自然発生したものだからである。とはいえ、「自然」と「作為」を区別する境界は曖昧で、ある集団が意図的に構成されたものか、自然に発生したものであるかを一義的に決定することはできない。とりわけネーションについては、この区別は微妙である。後に論ずるように、ネーションの構成には、さまざまな政治的決定や民衆運動がかかわっている。その意味では、ネーションもまた、(支配者や市民の)意図的な判断や実践に媒介されていると言わざるをえない。第一に、ネーションが意図的な選択に媒介されているとしても、それ自身は、そのような意図を越えた結果として生み出されたものである。その意味では、ネーションは合理的な計算には服していない、自生的なプロセスの産物である。第二に、ナショナリズムに関与した(支配者と民衆の)政治的判断・実践は、すでに存在していた自生的な共同体を利用・拡張するような形式で遂行されている。つまりナショナリズムは、自生的な核なしには、成立しえなかった。(p.75)

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