政治におけるロマン派とは

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 仲正昌樹金沢大学教授の『カール・シュミット入門講義』(作品社)を読み進める。『政治的ロマン主義』の講義から始まるが、日本浪曼派を「日本浪漫派」と表記するのは目を瞑るとしても、橋川文三の著作『日本浪曼派批判序説』(未来社)まで『日本浪漫派批判序説』としているのはいただけない。

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 シュミットがシュレーゲルおよびミュラーらドイツロマン派の思想傾向を論じているところで、ロマン派の「歴史の利用」について批評しているとの解説は、面白く大いに学ぶことができる。

 ロマン派はそうやって、「想像力」を「過去」へ遡らせ、「過去」を美化するわけです。何か「空想」っぽいけど、ロマン派も全く根拠のない「空想」をするわけではなく、過去についての記録や記憶を頼りに再現します——〈Dichtung〉というドイツ語は、口語では「作り話」という意味でも使われますが、本来の意味は「詩作」です。「過去」の「事実」は、単なる「虚構」だけでなく、一定の「現実性」が備わっている。それが「現実的なものの存在性Seinsqualität des Wirklichen 」です。〈Seinsqualität〉は、正確に訳すと、「存在の質」です。「存在」の仕方に強さあるいは、グレードがある、ということですね。我々は、ある出来事あるいは事物を、歴史的な「事実」として扱う時に、「『現実的なもの』としての存在の質」を付与しているわけです。

 そういう意味で、「過去」にはそれなりの「実在性」があるけれど、「現在」ほどの圧迫感はなくて、主体による一定の「解釈deuten」「綜合kombinieren」「構成konstruieren」を許容します。そこに、ロマン主義的な想像力を働かせる、作り替える余地があるわけです。ロマン主義者たちはそのように「歴史」を利用した。あくまで「利用verwerten」であって、歴史そのものを見ているわけではない。遠く離れていて、実際にはどうかはっきり確認できないので、ヴァーチャルに「利用」できてしまうわけです。( p.67 )

 

f:id:simmel20:20190416203701j:plain(庭の白花花蘇芳)