洞窟と庭師

 小林頼子目白大学教授の『庭園のコスモロジー』(青土社)読了。一つ一つ図版を見ながら読み進めるので、完読に時間を費やしてしまった。第6&7章「洞窟」と、第8章「庭師」も面白かった。西洋庭園およびその絵画表現のモチーフやイメージに、古代の神話・信仰とキリスト教の物語が、重層的に刻印されていることを知ることができる。
 洞窟のイメージについては、次の通り。
……キリスト自身も古代神の読み替えと解されることがある。最初のラテン教父テルトゥリアヌス(165頃〜225頃)、四大ラテン教父の一人ヒエロニムスの信じるところでは、イエスが生まれたと信じられているベツレヘム近くの洞窟で、古代の人々は彼らの主アドニスの神秘と誕生を祝っていた。聖母マリアは海のミュラ(ミルラ)と呼ばれることがあるが、アドニスの母の名もミュラだった。ミュラは実父と交わったことを恥じてミルラの木に変えてもらうが、アドニスはその木が裂けて生まれたのだった。イエス誕生を知って東方から礼拝にやってきた三博士の一人、カスパールは没薬(※もつやく)、つまり芳香の強いミルラを新生児への贈り物とした。アドニスはイノシシに突かれて死ぬが、流れた血からアネモネの花となって復活する。あたかも十字架上で血を流して亡くなったキリストが三日後に復活したように。誕生、死、再生において、キリストはアドニスをなぞり、マリアはミュラを繰り返す。初期キリスト教徒が、古代の神をキリスト教的に読み替えつつ、己れの信仰の体系を整えていった様子が窺えるが、その試みの出発点として洞窟表象は間違いなく重要な役割を果たしている。古代とキリスト教の世界は、質を変えながらも、暗い洞窟でつながっているのである。……(p.181)
 http://www.weleda.jp/topics/herb/08.php(「ミルラについて」)
 ヨハネによる福音書では、墓から復活したイエスを、マグダラのマリアは庭師と勘違いしてしまう。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい(※ノリ・メ・タンゲレ)。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(新共同訳)
 17世紀末いろいろな人の営みを紹介した、ヤン・ライケンの『人の営み』には庭師が取り上げられているそうである。
……ライケン本は、エンブレマータという文学形式をとっており、一つ一つの画像には、モットーと解題が付いている。庭師の場合は、「義の園は、地上にあらず」、「人は囲われた園を愛する、そこには歓びと安らぎがある。だが、花咲く園に人は別れを告げねばならない。だから、思慮深く、賢き人は、楽園に種をまき、木を植える、命が永遠に楽しく過ごすであろう彼の地に。」とある。人が手入れするべきはここにあるような塀に囲われた地上の庭ではない。キリストにより永遠の命を得た者のみが入る囲われた楽園にこそ木を植えよ、というのである。ライケンの庭師は、現実の営みをする人と、「われに触れるな」の庭師としてのキリストのように神のところへ上ろうとする人とのダブル・イメージとなっているのである。……(p.205)
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