森本あんり『反知性主義』(新潮選書)を読む(その1 )


 森本あんり国際基督教大学学務副学長の『反知性主義』(新潮選書)を遅まきながら読む。プロローグ&エピローグと全7章から成り、ただいま第五章まで読み終わったところ。反知性主義という言葉は、アメリカのキリスト教とハーバードを中心とした大学の設立・発展との関連の歴史的文脈で生まれたもので、日本で流通している使われ方は本来の意味からは逸脱していることを学べる。
エピローグ:キリスト教神学における「契約」とは、「神の一方的で無条件の恵みを強調するための概念」で、「人間の応答は、それに対する感謝のしるしでしかない」のであったが、「ピューリタンを通してアメリカに渡った」「契約神学」は、「神と人間の双方がお互いに履行すべき義務を負う、という側面を強調するようになる」。「人間が信仰という義務を果たせば、神は祝福を与える義務を負い、人間はそれを権利として要求できる、ということになる。その結果、宗教と道徳が直結し、神の祝福とこの世の成功が直結する」。→「アメリカ精神とは、昔も今も、このレールの上を突っ走る機関車のような精神である」。
第一章:教会の改革は、「教会の教えではなく聖書の教えに立ち返れ」というかけ声で始められたが、ピューリタンは、そのプロテスタントの先鋭であり、ピューリタンの牧師たちに聖書の解釈と解説の高い能力が求められた。彼らは、ヘブライ語ギリシア語を学び、原典から聖書を読解し、そこから得た自分の考えを、聴き手にわかるようなメッセージに組み立て直して語らねばならない。これはかなり高度な学問的手順を要する。ハーバード、イェール、プリンストンの3校は、いずれもこうした任務に就くピューリタン牧師を養成することを第一目的として設立されたのである。ハーバードは、実際には牧師以外の世俗職に就く者も多く、幅広い知を目指すリベラルアーツの大学としての半面ももっていた。
第二章:「信仰復興」「信仰復興運動」「リバイバル」「リバイバリズム」「大覚醒(The Great Awakening)」などと呼ばれる宗教的熱狂がアメリカ史に繰り返し現われる。最初は、1734年。マサチューセッツノーサンプトンの町で、町全体が急速な宗教心の高揚を見るに至る集団ヒステリーが起こっている。1741年、この高揚を記録していた牧師ジョナサン・エドワードが隣町の教会で「怒れる神の手の内にある罪人」の説教をすると、収拾がつかないほどの喧噪が起きてしまう。この「信仰復興」の背景には、「ニューイングランドの人びとにくすぶっていた、回心体験への強い希求」という「内的要因」と、人口の増加および、印刷業の発展による「大衆メディアの発達」という「外的要因」があったのである。「神の行商人」と揶揄されたジョージ・ホイットフィールドほか、行商人のように神の話を売って歩いた巡回説教師が多く輩出した。
……ところが、皮肉なことに、彼らの話は抜群に面白い。何せ、それまで人びとが聞いてきた説教といえば、大学出のインテリ先生が、二時間にわたって滔々と語り続ける難解な教理の陳述である。それに比べて、リバイバリストの説教は、言葉も平明でわかりやすく、大胆な身振り手振りを使って、身近な話題から巧みに語り出す。既成教会の牧師たちがいくら警告を発しても、信徒がどうしてもそちらになびいてしまうのも無理はない。溌剌とした語り口に惹かれて行く信徒たちを見て、町の権威だったはずの牧師たちは、深刻な引け目を感じたことだろう。……(p.83)/(※リバイバリストは、牧師たちに向かって)「あなたがたには学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない。まさにあなたがたのような人こそ、イエスが批判した『学者パリサイ人のたぐい』ではないか。」ーこれが、反知性主義の決めぜりふである。……(p.85)
第三章:迫害されればされるほど燃え上がって強くなる人の心理の機微を「迫害コンプレックス」と呼ぶ。「日本の社会なら、迫害コンプレックスは当人だけの思い込みで終わるだろう。だが、アメリカでは、不利益にもかかわらず、生命の危険すら顧みず、なお信念を曲げずにいる人には、何か真実があるに違いない、と思う人が多い。ヒーローを求める心である」。バブテストら宗教的少数者を迫害に導いた、ヴァジニアの公定教会制度は、マディソンがジェファソンと協力しつつ、長い努力の末に廃止したのであった。→政教分離と信教の自由を明記した連邦憲法の「権利章典」にも結実する。
 まったく非宗教的な啓蒙主義的な合理的精神と、敬虔な福音主義の熱い信仰心とが、宗教的なエスタブリッシュメントに対する共通の反感から連帯し、それによって公定教会制度が廃止されるに至ったのである。☞アメリカ政治の特質を理解する上で重要なこと。
 アメリカにおいては、チャーチ型とセクト型の対立のパターンがある。「一方で人びとは、国家や政府を地上における神の道具とみなし、楽観的で積極的な社会建設を志す。これはチャーチ型の精神である。しかし他方では、地上の権力をすべて人間の罪のゆえにしかたなく存在する必要悪と考え、常にそれに対する見張りと警戒を怠らない。これがセクト型の精神である」。「権力への根深い疑念をもつ反知性主義は、このセクト的な心性によく合致して、さらに強められる結果となった」。
第四章:ラルフ・ウォルド・エマソン(1803~1882)は、「ヨーロッパへの知的隷属はやめて、自分自身の目で世界を見ようではないか」と主張した。彼によれば、「国民」とは、「各人が、すべての人に霊感を与える神の霊によって、自分もまた霊感を与えられると信じて、はじめて存在する」ことができるもの。☞彼の標語の一つ「自恃の精神(Self-Reliance)」は、このような宗教的確信に裏づけられている。
 ヨーロッパ・既成教会・大学・神学部・政府に対する、宗教的使命に裏打ちされた「反権威主義」こそ、反知性主義の本質である。
第五章:「昔も今も、アメリカの大統領には、目から鼻へ抜けるような知的エリートは歓迎されない。二一世紀になってジョージ・W・ブッシュが二度の選挙に勝ったのも、同じ理由からであった」。☞アメリカは昔も今も、アフリカ系アメリカ人や先住民や移民の扱いにおいては、知識人の「タテマエ」と一般大衆の「ホンネ」とがぶつかり合う社会である。
 巡回伝道師の流れから、買い手を騙すようないかがわしい詐欺師=「コンマン(conman)」が現われてくる。他人の信頼(confidence)を逆手にとって偽物を売りつける連中である。
……コンマンの相手は、町の金持ちでも連邦政府でもギャングの親玉でもいい。とにかく強い者をやっつけるのがポイントである。それで大きな利益を手にすることもあるが、それが目的ではない。目的は何といっても「相手のハナをあかす」ことである。反知性主義は、反権力主義である。……(p.172)