「美徳の不幸」

 
 8/5(金)夜テレビ朝日のTVドラマ『ジウ』を観た。黒木メイサ演じる伊達基子巡査は、格闘能力抜群で、自らの弱さをすべて圧殺して、警視庁SAT(特殊急襲部隊)で活躍することになる。いっぽうの多部未華子演じる門倉美咲巡査は、情に弱く犯罪者の育った環境も理解しようとする。この二人がともに捜査一課の特殊犯捜査係から異動を命じられるきっかけとなった、人質監禁立てこもり事件を描いたのが、この回。犯人の要望で食事を運ぶことになった美咲が、交渉の役も期待されて建物に入ると、「脱げ!」と、犯人の予想外の命令。外では拳銃を持った、黒の突入服の基子たちが待機している。「これは、『ジェスティーヌあるいは美徳の不幸』の展開だ」と、やや興奮気味に画面を観た。
 http://www.tv-asahi.co.jp/jiu/cast/index.html(『ジウ・警視庁特殊犯捜査係』)
 なんのことはない、多部未華子さんがスリップ姿になっただけだった。この犯人もずいぶん紳士的な男だと妙に感心した。「後ろ向きに膝をつき、ケツを見せろ」と犯人。ここは紳士的ではない。fetishisticな好みがあったのかもしれない。しかし画面にその場面は当然ない。突入した基子の威嚇射撃によって、けっきょく犯人は逮捕されてしまう展開。物足りなさも残したが、面白くはあった。


 秋吉良人國學院大學准教授の『サド—哲学の現代を読む6』(白水社)は、サドの思索も西洋哲学史の発想の系譜にあることがわかる刺激的な著作である。古代のルクレティウス唯物論を18世紀当時流行したらしい「魂=神経系内の電気流体」説で補完(かつ逸脱)して、対象の放った原子が人間の神経流体上で衝突をまねき、その震盪が快楽と苦痛を生むとするサド理論によれば、読書で得られる興奮・快楽はどこから放たれた原子の衝突の結果なのだろうか。
 フランス語を解さなくても議論が理解できるように、著者はことばについて語源・つながりなど丁寧な解説を加えながら誘ってくれるので、読み進めるのに難渋しない。「サドの言葉は、比喩を字義通り、即物的に読ませることが多い」との指摘は、これまで親しんだ澁澤龍彦訳の短所を知らしめる。
「光(リュミエール)の世紀」である18世紀フランスにおいて、キリスト教と、フランス革命を導いた「哲学者」の議論、そのどちらをも否定しようとしたのがサドの思想で、しかも敵対する思想の表現あるいは議論の展開過程を換骨奪胎して作品化している、というのが骨子である。「切断」と「衝突」の二語をキーワードとしている。
 サドにおけるエロスを示すことばは、「リベルティナージュ」で、これは、エロスと背徳を一つにしたような語であるそうだ。
『もしあなたが快楽の探求者であるなら、情欲の高まりにおじけづくことなく、それがいかに自然の計画に根ざしたものなのか、その正当性を理解し、育んでほしい。サドは「リベルティナージュ」に、学び、原理的・体系的に深めていくという知的な裏づけを求めます。サドの描いた一級の悪人たちは、自分たちを「哲学者」と呼び、ただ肉の傾きに引きずられて悪や放蕩にふけるのではないと言います。彼らのリベルティナージュは、一見いかにでたらめで無軌道に見えようと、つねに「熟慮した上での腐敗・堕落」でなくてはならないのです。』
「光の世紀」の哲学者らの願いと存在意義は、各人の自己愛を陶冶しながら、互いの必要・利害や有用性を「絆」とし、bien(善・利益・幸福)を施しあって、すべてを抱合し「神」の地位を奪うにまでいたった「社会」の役に立つことであったが、
『「啓蒙の信徒」として出発したはずのサドは、やがて哲学者たちや革命の人々がやっきになって考え出したこれらの「絆」をも耐えがたい「束縛・鎖」と見なすにいたります。(語を原義的に、物に即して理解するサドにとって「絆=シェーヌ」は「鎖=シェーヌ」なのです)。サドのリベルタンたちは、それらをひとつひとつ断ち切っていく。彼らは、十八世紀の人々が創出した哲学者のあり方に真っ向から挑む、いわば「切断の哲学者」として生み出されたのです。』
 哲学者たちが弦楽器の比喩を用いて、まず人の精神の諸機能を説明し、ついでに人と人の調和=ハーモニーを論じ強調したのに対して、サドは、「太鼓とばちの衝突」をモデルにして、社会の「ハーモニー」の対極の、社会の「戦場」化を意図する。そもそも太鼓は、もともと戦争の楽器であり、これがヨーロッパに伝わったのは、オスマン・トルコとの戦いのあと、その影響を受けてのことであったそうである。それにしても、サドが実は行動的な軍人であったという経歴には驚いた。
『十四歳で兵学校に入り、人類初の世界戦争と称される七年戦争にも将校として従軍し、革命後は内外の戦いに明け暮れるフランスに生きたサドにとって、「太鼓」の轟音はごく身近なものだったはずです。』
「衝突choc」は、物体同士の衝突を意味するのみならず、軍隊間の衝突をも意味し「戦闘、交戦、闘争」は同義語だそうで、『サドの世界は一貫して「戦い」=「衝突」の世界なのです』。
 思想史的逆転で面白いのは、18世紀において、「弱さ」、「真の悪徳」、旧体制下の奴隷根性など、徹底的に否定的な刻印をされてきた、古代ストア派以来の「アパシー」が、サドの「リベルティナージュ」の真の境地とされていることである。
『このようにサドのリベルタンたちは、「ストイック」の名において、自らの苦難・苦痛、さらには死にもひるむことなく立ち向かっていく勇猛さを己に課し、そして憐れみといった直接的な対人感情を廃した「アパシー」によって「真の自立」=「孤立」を目指すのです。』
 著者が、サド思想の現代性などあえて論点からはずして、一貫して18世紀フランスの思想史的文脈で論じたのは、読者にとってはありがたい。学者・研究者の場合は、きちんとした学問的考察のほうが知的刺激を与えてくれるものである。

サド―切断と衝突の哲学 (哲学の現代を読む)

サド―切断と衝突の哲学 (哲学の現代を読む)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、上シコンノボタン(紫紺野牡丹)の花、下サギソウ(鷺草)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆