シオランの「ユートピア」


東京新聞』の「大波小波」の記事に触発されて、書庫からシオランの『歴史とユートピア』(出口裕弘訳・紀伊国屋書店)を探し出し、第Ⅴ章「ユートピアの構造」を読んだ。昔読んだときは、あまり面白かったという記憶はないが、「キリスト教が人々の心を満たしていたあいだは、ユートピアが魔力を発揮するはずもなかった。人々がキリスト教に失望しはじめるや否や、ユートピアは一挙にして人心を掴み、そこに根を下そうとしたのである」とか、「錬金術ユートピアとが、その実際的な面でたがいに通じあうものである」などの指摘は、なるほどと思った。
……ひとつの国家が、他の諸国家からぬきんでるために、これら諸国を侮辱し粉砕するために、あるいは単に独自の風貌を獲得するために、自国をみちびき、実際の力量とは通約しかねるような諸目的を自国に提供してくれる、ある無分別な理念を必要とするのと同じく、ひとつの社会は、その社会の実情とはまるで釣り合いのとれぬかずかずの理想を、暗示してやるなり教えこんでやるなりしなければ、決して発展もせず確立されもしないのである。集団の生命を維持する上でユートピアの果す役割は、民衆の生活のなかで使命という理念の果す役割にひとしい。イデオロギーは、救世主待望の幻影から、あるいはユートピアの幻影から生れた副産物であり、いわばその普及版であろう。……(pp.133~134) 
⦅写真は、東京台東区下町民家のリコリス(シロバナマンジュシャゲ)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆