この5/29(水)に、放送大学教授・東京大学名誉教授の野山嘉正氏が、うっ血性心不全で逝去された。野山嘉正先生は、わが中学・高校の先輩(演出家の故蜷川幸雄氏と同級)にして国語科担当の恩師で、後に山梨大学助教授を経て、東京大学教授(日本近代詩歌史専門)の地位に就いたのであった。学校近くにあった先生のお住まいには、高校を卒業してからもアポなしでお邪魔することが何度かあった。有島武郎研究の故西垣勤氏とお会いしたのも、たまたま友人と訪問した先生宅でであった。
昨年頂戴した年賀状には、「現在の予後を持続する意でおります」と印刷されてあった。いつも一葉一葉丁寧に毛筆で認められてあったので、一瞬不安のようなものが過ぎったことを、いま悲しく思い起こすのみである。ご冥福を祈りたい。
野山嘉正氏の近代文学研究の出発点は北村透谷で、今年は透谷没後125年にあたる。透谷没後百年の『文学』(岩波書店、1994年春号)の特集「透谷の百年」の座談会では、司会進行役を務めている。ここで話題の一つとなっている劇詩『蓬莱曲』の東京俳優座劇場での初演舞台(1964年6月)は観ている。
野山:色川さんは今までの上演をごらんになりましたでしょうか。
色川:名田房代制作、茂山千之丞主演の『蓬莱曲』の初演は、見ました。70周年のときにね。
野山:魔王が出てきたときにはみんな吹き出しちゃった。
平岡:ところが透谷が「他界に関する観念」の中で、劇で大江山の鬼が出てきたときに、「三尺の童子たりし時にすら、畏怖の念よりもむしろ嘲笑の念を抱きたりと記憶す」と書いている。よく分かっているんですよ。
色川:ところが、それを実際に作るというのは大変なことですね。だいたい観客の側にあの手の他界の観念がないんだから。
野山:それで、キリスト教なんかのことは、色川さんは簡単に伝統がないからとおっしゃったけれども、明治のクリスチャンは、それを作ろうというふうになっていたわけですよね。
色川:そうでしょうね。作り出したかったんでしょう。
野山:そうすると、文学の創造の場とキリスト教会で生きているというか、そういうことの関係がちょっとこれは論点としては、一つ突き詰めていかなければいけないのじゃないかと思うのですけれども、その点はいかがですか。
色川:透谷の場合はキリスト教でしょうが、二葉亭や漱石らは違う道を通った。キリスト教というのは、当時の知識人は文化として、まず受けとめて、その文化を何とかして自分なりに納得いくまで理解したいと思ったんでしょうね。