退屈について・2

 ノルウェーの哲学者ラース・スヴェンセンの『退屈の小さな哲学』(鳥取絹子訳・集英社新書)は、退屈という、祖型はあっても「近代に特有の現象で」「ほとんど誰にでも関わっていて、現代西洋社会のもっとも特徴的な現象の一つ」を根源的に追求している。もちろん現代日本も同じ現象が起きている社会に含められる。なぜなら、
……退屈はどう考えてもユートピアの一部ではないが、しかし、僕たちが「ユートピア」に生きていることが退屈なのである。……
 ここで「ユートピア」とは、欲望があらかた実現可能になってしまった社会ということであり、現代日本は二極化が進行しつつあるとはいえ、「不足」しているものへの渇望は全体としては弱まっているだろう。「ユートピア」の到来とは、意味の喪失という事態であり、ここに退屈が発生する。さて退屈とはとりあえずは、次のような状態を指している。
……人は退屈すると、その時間に何をしたらいいのかわからない。僕たちの能力すべてがいわば休閑状態で、どう使ったらいいのかまったくわからないからである。……
 流行に身をゆだねる生活も退屈から解放されることはありえない。
……現在のように流行に支配された世界では、僕たちはつねにより刺激的なものに襲われるのだが、これもまたさらに退屈になるのがおちである。あるルールが解放されると、また別のルールがその上を行き、けた外れになった個性はよほど注意しないと抽象的な没個性に変わってしまう。……
 著者は、ハイデッガーの「退屈の現象学」(『形而上学の根本諸概念』)を紹介する。ハイデッガーによれば、退屈にも三つの形式があるとする。第一形式は、「状況の退屈」と著者が名づけるもので、空港で飛行機の搭乗と離陸を待っているときや講義など、退屈なものがはっきりしている場合だ。第二形式は、パーティーなどそのときはとても充実し楽しく過ごしているのだが、後から無駄な時間を過ごしていたと感じるような退屈をいう。「空しい」という意識である。よりハイデッガー風には、「本来的自己が置き去りにされている」との意識である。第三形式の退屈は、これといった状況とは結びつかない「深い退屈」であり、われわれは「誰でもなくなり、自分が空になった状態を体験できる」退屈である。ここからの自己努力によって、自由で本質的な自己の意識への道を開く可能性をみるわけである。その自己努力の一つが「憂愁という根本気分」のなかでのみ成就する哲学のいとなみということになる。
 ハイデッガーの難解な処方箋よりも、著者ラース・スヴェンセンの巻末近くの言葉のほうに惹かれる。
……もちろん僕は、本当の自分を創るための魔法の言葉などあげられない。それでも、自分について熟考することは自分自身のためにもぜひやってみるべきだと思う。その場合、他人のやり方を適用しないように心がけることだ。哲学は、僕にとっては熟考することより題材が少ない。哲学ではある主題を教えることはできるが、熟考にはそれぞれが一人でしなければならない何かが残っている。ウィトゲンシュタインによると、「哲学の仕事は―建築の仕事のように多くの局面にわたるものだが―本来はむしろ、自分自身にかんする仕事である。自分をどうとらえるのか。ものをどう見るのか。(ものにどんなことを期待しているのか。)」自分自身のために考える作業を他者に依託するのは完全に間違いだろう。……
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110518/1305685155(「退屈について」)

退屈の小さな哲学 (集英社新書)

退屈の小さな哲学 (集英社新書)