ハイデルベルク城の「庭園」

 今朝の地震には驚いた。もっとも、その後すぐまた7:30まで寝てしまったが。風水的に今年は悪いのか、飛行機事故に遭遇した東京調布市震度5弱であったとのこと。東北大震災のときは、震度5弱(推定)の揺れで、わが家の庭の燈籠が倒れてしまった。本日はむろん無事であった。
 わが庭は、ささやかながら基本は和風庭園(のつもり)である。鉢物は多く置くが、薔薇などは植えていない。

 小林頼子目白大学教授の『庭園のコスモロジー』(青土社)は、はじまりはドイツのハイデルベルク城にあった庭園についての記述である。ハイデルベルク城へは若いころ訪れたことがあり、懐かしく読み進めている。ただしこの庭園なるものは、廃墟であって存在しない。1614年、ブファルツ選帝侯フリードリッヒ五世が、新婦のエリザベス・スチュアートを迎えるため、フランス人造園家サロモン・ド・コーに依頼して造らせたものである。ところがその後、フリードリッヒ5世がボヘミア王位を継ぐことになり、工事は中断。バイエルン公マクシミリアン一世配下の軍との戦いに敗れ、ハーグへ亡命を余儀なくされた。三〇年戦争の最中でのハイデルベルク城攻撃によって、後半年あれば完成するはずであったこの庭園は破壊され廃墟となったのである。残されたド・コーの設計図、マテウス・メリアンの版画、風景画家ジャック・フキエールの庭園完成予想図などを資料にして、この美しい庭園をかなり具体的にイメージできるとのことである。
……秩序と変化をともに兼ね備え、まさに訪れる者の眺める悦び、逍遙する楽しみを最大限に喚起するようデザインされたこの庭園は、川に沿って広がる下の街から見上げれば、失った悦びの園=パラダイスのようにも、最後の審判の後に善き者たちのみが入ることを許される天国のメタファーのようにも見えたのではなかろうか。設計を依頼したフリードリッヒ五世、実際に設計したド・コーは、そのことを十分に意識した上で、城の脇の険峻な土地を利用して庭園をつくり、そこに様々な花や樹木、路や花壇、噴水や迷宮やグロッタ(※人工の洞窟)、彫刻や東屋を配することにしたのだろう。だからこそ、やがては失われる楽園で、メタファーとして、フキエールは未完成のまま中断されると知った時点で描いた一六一九年の絵画で、手前の一段高い丘に、失われた楽園を象徴する一本の木—おそらくは善悪の知識の木—と、その木の根元あたりで身をくねらせるヘビとを描き込んだのではなかったか。奇しくも、フリードリッヒ五世とエリザベスの夫妻は、この庭園から出て、ついに帰る機会に恵まれることがなかった。まるで、蛇の誘いで善悪の知識の木の実を食べて、楽園から追放されたアダムとエバのように。……(pp.24~25)
⦅写真は、東京台東区下町民家のシコンノボタン(紫紺野牡丹)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆