呉座勇一『戦争の日本中世史』を読む(Ⅰ)

 日本中世史研究家呉座勇一氏の『戦争の日本中世史』(新潮選書)は、「はじめに」で『日本の歴史を振り返った場合、「平和」であった時代はそれほど長いわけではなく、「日本は平和」という理解そのものを疑ってかかる必要があるかもしれない』と述べるように、戦乱相次いだ中世の時代の「戦争」を蒙古襲来から応仁の乱までの約200年間に限定し、戦後歴史学唯物史観に依拠した階級闘争史観の呪縛から自由になって、解明しようとしている。全7章から構成され、今回は第一章「蒙古襲来と鎌倉武士」・第2章『「悪党」の時代』を読んだところ。基本知識を欠いているので、手元には日本史広辞典編集委員会編『山川・日本史小辞典』(山川出版社)を置いて読む。
 文永11(1274)年モンゴル・高麗軍が対馬壱岐を経て九州博多に侵攻上陸し、日本軍が応戦した。文永の役である。日本軍が国内での戦法である一騎打ちでこれを迎え、モンゴル軍が大勢で取り囲んで殲滅したと史料にあるとされているが、じつはこの史料とは、『八幡愚童訓』という石清水八幡宮の関係者が、八幡大菩薩の霊験あらたかであることを説くために書かれた布教本だそうである。だから鎌倉武士の力では勝てなかったことを主張したかったのである。あくまでも、モンゴル軍を倒したのは八幡神でなければならなかったということ。ここが愉快で面白かった。
 それにしても教科書でもお馴染みの竹崎季長が、歩兵にお供をさせられないほど貧乏だったとの記述にも驚いたが、「幕府軍の中には竹崎季長隊のような小武士団が多数含まれており、全軍を有機的に動かすことは難しかった。そのことは他ならぬ季長の行動に良く表れている」というのも初めて知った。
 なぜモンゴル軍は撤退したのかをめぐって、いろいろな説を紹介している。台風説は、現在の暦では11月26日にあたり、考えにくい。ただし帰路外海で暴風雨に遭った可能性はあるようだ。文永の侵攻は、日本軍の実力を値踏みするためとする威力偵察説もある。威力偵察とは、「大規模作戦の直前に行う、敵布陣の実地調査である」ことから、弘安の役が7年後の1281年であり、間の抜けた話である。
……鎌倉武士は勇戦し、相手の戦力が思っていた以上に強力であることを知ったモンゴル軍は被害の少ない内に撤退した。その事実を認めることは軍国主義でも何でもない。「日本軍は負けていた」と言い募ることが「平和主義」の発露だとも思わない。なお海上自衛隊教官出身の太田弘毅氏は、「遠征中の戦闘の過程の最中に決断された撤退」と冷静に論評しているが、氏の議論をほぼ黙殺しているのが日本史学界の現状である。……(p.45)
 鎌倉幕府は対外的には、モンゴルの襲来が最大の問題であったが、対内的には「悪党」問題が最大の問題であった。「悪党」によって、鎌倉幕府は滅びたとする研究者も存在するとのことである。姫路の峯相(みねあい)山鶏足寺を参詣した旅僧と同寺の老僧の問答を記録したという形式の『峯相記』には、「異類異形」の悪党イメージが描かれているが、ある種の偏見から「悪党」をことさら醜悪のものとして描いたと想像できるのである。
 有徳人(うとくにん)=金持ちと悪党は、現実問題として重なるそうで、「両者の活動の基盤は荘園経営や年貢物資の運送・換金等の請負、そのための条件整備等で、社会事業家としてあらわれれば有徳人、紛争を招けば悪党」との本郷恵子説を紹介している。
……私が有徳人を「悪党」と呼ぶことに反対なのは、「悪党」という言葉のインパクトが強すぎるからだ。有徳人の登場を「悪党」の台頭という形で説明してしまうと、新興勢力が既存の秩序に反旗を翻すという「階級闘争史観」から逃れられない。右で述べたように淵信の動きは「本所敵対行動」というよりは、むしろ権力との癒着による蓄財であった。……(P.79)
 ※淵信:高野山の僧侶で、備後国太田荘の雑掌(現地管理人)に任命された。農民からの収奪と、建設・流通・金融業まで手がけて、多角経営の相乗効果により資産を膨らませ、一国の守護でもかなわないほどの羽振りのよさだったという。
「悪党」問題とは、「一円化」という荘園制の変質・動揺に起因する諸々のトラブルに他ならない。13世紀前半まではの中世荘園には、本家(王家・摂関家)ー領家(貴族・寺社)ー預所下司(幕府の御家人が就任している場合は「地頭」)が序列的に存在し、それぞれ「得分(収入・取り分)」を得る。この「得分」を得る権利が「職(しき)」で、一つの荘園には重層的にこの権利が設定されていて、これを「職の体系」と呼んでいる。
……本所(※本家もしくは領家)と地頭との間でのトラブルだけでなく、本家と領家、本家と預所の間での訴訟も、この時期(※鎌倉後期)には多く見られる。争点は、本家の人事権の有無である。つまり、本家が領家や預所を自由に解任できるのか、それとも領家や預所は本家の恣意によって解任されることはなく、後任も自分で決められるのか、ということである。荘園ごとに事情が異なるので、どちらが勝つかはケース・バイ・ケースだが、いずれにせよ、片方の権利が圧縮され、その分、もう片方の権利が伸長するので、権利関係は単純化される。こうした諸々の現象を、中世史研究家は「一円化」と総称しているのである。……(p.88)
 この「一円化」の要因を探るのは難しい問題であるが、重要な手がかりとして相続法の変化がある。「この時代の最大の財産は不動産、つまり所領であるが、耕地に関しては一定の規模がないと農業経営が不可能であるというネック」があり、そこから、親の所領を複数の子女が分け合って相続する分割相続から、嫡子単独相続への移行が余儀なくなったのではないか。
……粗放的な農業経営ではなく、限られた農地をきめ細やかに利用しようとした場合、権利を声高に主張する他者を淘汰していかなければ話が前に進まない。これが「一円化」現象の本質ではないか、と私は考えている。要は限られたパイの奪い合いであり、この熾烈なサバイバルが刑事事件に発展すると、幕府や朝廷から「悪党」問題として認識されることになる。……(p.92)
 鎌倉幕府滅亡の根本的原因に関しては、中世史研究の現在においてはまだ解明されていないそうである。「人々の専制支配への怒りが体制を崩壊させた式の議論は、革命の実現を熱望したマルクス主義歴史学の残滓でしかない」ということになる。

戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)

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