『明治維新という幻想』(洋泉社)を読む


 森田健司大阪学院大学准教授の『明治維新という幻想』(洋泉社)は、「徳川家の専制」であった江戸幕府の政治体制を「公議輿論」に基づく近代国家の体制に導いたとされる、明治維新という歴史的変革を、明治以来つくられた「陽」のイメージから解き放ち、「負」の面を庶民を含めた人物群像を点検して論じている。巻末の明治時代歴代内閣総理大臣出身地一覧を見れば、一目瞭然、京都出身の西園寺公望を例外として、「薩長土肥」の出身なのであった。つまり広く「賢才」を求めたのではなく、権力対権力の戦いに勝利した「薩長土肥」の連合体こそ新政府の実体であったのだ。著者は、戊辰戦争を描いた「風刺錦絵」などに窺える江戸の庶民の「眩い庶民文化」と、幕府側の要職にあった政治家たちの「非戦の美学」に惹かれるものを感じ、「江戸のすべてを否定」した明治政府の出生の暗部を剔抉(てっけつ)しようと試みたわけである。
◯軍備を増強することによって、(河井)継之助は何を狙っていたのだろうか。旧幕府軍の一員として、新政府軍を蹴散らすつもりだったのだろうか。実は、彼は大量に購入した銃砲によって、戦をするつもりはなかった。強大な軍事力を後ろ盾に、藩の政治的中立を確保しようとしたのである。他藩には見られない、まさに独自路線だった。
 しかし、この方針は、新政府との、たった一度の、そしてわずか三十分程度の話し合いで叩き潰されることになる。世に言う、「小千谷談判」である。( p.80 )
◯(松平)定敬(さだあき)の降伏によって、桑名藩は許されたのだろうか。新政府は、それほど甘くなかった。桑名藩士にして、最後は新撰組に入隊して函館戦争を戦った森常吉が、藩の全責任を背負って切腹させられたのである。( p.94 )
◯戦いが終わった後、城下には会津の人々の遺体が散乱していた。しかし新政府軍は、遺体の埋葬を強く禁じた。そのため、遺体は野犬に喰われ、烏に啄(ついば)まれ、最低限の尊厳さえ奪われた上で朽ちていった。
 これは一種の見せしめである。自分たちに楯突く者は、決して生きていられないし、死んでも浮かばれない。新政府軍の本性が剥き出しになった瞬間だった。( p.102 )
◯新政府軍は道徳的水準がきわめて低く、会津戦争の際などは、会津の女性に恥辱の限りを尽くしたことが語り継がれているが、庄内軍は、この真逆だった。略奪や暴行を一切許さず、幹部は兵士を厳しい軍規で律していた。特に、非戦闘員の人命は、何より尊重するところだった。( p.108 )
◯晩年の山岡鉄舟の写真は、若い頃の彼と同じく迫力に満ちているが、周囲に柔和な空気を纏っているようにも感じられる。彼のこの姿こそ、豊かな江戸文化が育んだ、「剣禅一致」の武士道の完成形だった。江戸にはあったが、明治では失われたもの。その第一は、山岡に見られるような、精神における峻厳な美学なのかも知れない。( p.139 )
慶喜に面会した(高橋)泥舟は実際、強く恭順を勧めた。それを聴いた慶喜は、すでに決めていた「不戦と恭順」という姿勢を、なおいっそう、確固たるものとする。その後、泥舟は、上野の寛永寺(東叡山)での謹慎を慶喜に提案し、それはそのまま受け入れられることとなった。( p.145 )
◯すでに触れた『復古記』をはじめ、新政府は自身の正当性を担保する「正史」の作成に、何より力を注いだ。簡単に言えば、「自分たちが正しい」ことを証明しようとしたのである。なお、そのようなポジティブな作業と同時に、彼らは「あるもの」を否定することにも注力した。それは、「旧体制たる徳川幕府」である。( p.176 )
◯歴史的に見て、最も面倒な独裁者は、実は大久保のようなタイプである。「公益のために、やむを得ず権力を行使している」と考える政治家ほど、恐ろしいものはない。西南戦争の只中で木戸(孝允)が病没し、もはやライバルすらいなくなった大久保は、日本の近代化のために、献身的に働いた。だが、果たして彼に、そういったことを行う資格があったのだろうか。( p.198 )
◯究極、どの戦争も無意味だが、それでも戊辰戦争ほど無意味な戦争はなかったと断言したい。過去を知ることによって未来が変わるのならば、様々な価値観が揺らいでいる今こそ、「日本史の最暗部」の一つである戊辰戦争は再考されるべきだろう。そして、一度断ち切られた、江戸と現在をつなぎ直さなくてはならないと思う。( p.228 )