『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)を読む(Ⅳ)


 第七章「智慧と慈悲—なぜ死ななかったのか」は、ゴータマ・ブッダは悟後に解脱の楽を独り味わうことに安住せず、なぜ衆生に対する仏教の宣布をはじめたのかについて考察している。一般に「慈悲」によって仏教の宣布をはじめたとされるが、仏教の「慈悲」は、現代日本語の「優しさ」とは全く異なる意味も含まれているのであり、「優しさ」から衆生に法を説いたのではないのである。「慈悲」というのは、「慈・悲・喜・捨」とセットになっていて、慈=与楽、悲=抜苦、喜=衆生の喜びをともに喜ぶ心は「優しさ」と重なるところも大きいが、「捨」は、心の動きを全て平等に観察して、それに左右されない平静さのことである。この「捨」の態度は、現象を如実知見して、それらを全て縁起の法則によって継起する中立的な出来事として観察する、覚者の風光からもたらされる。
 説法を躊躇していたゴータマ・ブッダは、梵天(brahmā)の勧請によって衆生に教えを説くことを決意するに至る。しかし、あくまでも煩悩の汚れの少ない、機根(才能)のある者たちを対象にしたのであって、「一切衆生」を対象とするものではなかったのである。このとき、ゴータマ・ブッダには、「あわれみの心」はきちんと存在していたということ、慈悲による利他の実践をするのかどうか、それをいかに・どの程度のレベルで行うのかについては「自由裁量」の可能性があったということの二点に、著者(魚川祐司氏)は注意を促している。
 ゴータマ・ブッダが、「物語の世界」への執着から解放されて、再びそこへ介入することは「無意味」な行為のように思えてしまうが、全てが「無意味」であるとするならば、「無意味だ」と言うことにすら、既に「意味」は存在していないはずである。
……いまの議論の文脈に合わせて言い換えるならば、ゴータマ・ブッダの語ったことは、「全ては無意味だ」ということではない。そうではなくて、彼が教えたのは、「無意味だ」と口にしてまで新たな「意味」を生成し続けずにはいられない、その衝動、その根源的な欲望を深く見つめ、それを滅尽させることである。そうしてはじめて、私たちは物語の外、「欲望の終わり」に、本当に到達することができる。彼が言ったのは、そういうことだ。……(p.173)
 初期大乗経典に菩薩のことが出ている。「悟り」の初期段階(初歓喜地:しょかんぎじ)に入り、ゴータマ・ブッダと同様に、世界の衆生たちを観察しているが、菩薩には「大悲の智慧」と「大慈智慧」が生じ、その救済の対象は、ゴータマ・ブッダの場合と異なって一切衆生なのである。
……このように、智慧の覚悟と慈悲の実践は、矛盾するものでは決してないが、かといって、必ず併存していなければならないというものでもない。涅槃を覚知した者が利他の実践を行わないことは十分にあり得るし、また実践をするとしても、それをいかに・どの程度のレベルで行うかは、本人の自由な選択、もしくは決断の問題である。このこともまた、現実の仏教を理解する上では、ごまかすことなく踏まえておくべき大切な確認事項であると、私は考える。……(p.180)
 ゴータマ・ブッダと呼ばれる一個人のはじめた仏教という宗教は、アジアを中心に広く伝播し、現代では欧米を含めた世界中に根づいているが、驚くべき思想的多様性をもって展開しているのが特徴である。考えられるその原因の一つとして、覚者の「遊び」としての「物語の世界」への関与の仕方、その「自由裁量」」の可能性が挙げられる。
 第八章は、ゴータマ・ブッダ入滅後の仏教史についての、いままでの考察を踏まえた簡単な素描を試みている。
 大乗は、菩薩乗である。「つまりは現世における苦からの解脱という自利を追求する阿羅漢ではなく、一切衆生を広く救済する自利・利他の完成者としてのブッダとなることを究極的な目標とし、自らをその過程にある菩薩として位置づけることをその本懐とする」。「苦から解脱する方法はゴータマ・ブッダによって既に明快に示された以上」「いちいちゴータマ・ブッダの過去生の利他行の過程を自らも辿り直し」「ゴータマ・ブッダと同じ方法を再発見して衆生に説く」などという迂遠なことをする必要があるのだろうか。著者は長くこの疑問を抱いていたが、覚者たちの「物語の世界」への対応の仕方の違いとして捉えればよいのである。『彼らはもちろん、「本来性」としての涅槃の高い価値を知っていたが、同時に、その観点から反照された「現実性」にも、ゴータマ・ブッダよりもずっと高い価値を認めようとする』。つまり『涅槃よりも世間を、不生不滅の寂滅境よりは生成消滅の「物語の世界」を、ゴータマ・ブッダより高く価値付けようとするモーティヴが、その基本的方向付けとしてはたらいている』のである。
……「本来性」を知り、己の立脚地をそこに置くということに関してはゴータマ・ブッダと変わらなくても、その「現実性」との交渉の仕方に関しては、ゴータマブッダとは異なる道を選んだ人たち。「大乗」とはそのような覚者たちによって担われた運動なのではないかと思われる。……(p.193)
 かくして「本来性」と「現実性」との多様な関係の仕方として、仏教史を眺めるならば、どれか特定の立場だけを「正しい仏教」、それ以外は「間違った仏教」と断定することには、さほど重要な意味はなくなってくるのである。
「あとがき」で、現代アメリカにおける仏教の活況ぶりについて触れ、「現代の仏教のフロンティアが、もともとの仏教圏であるアジアではなくて、既にアメリカに移っているのではないかと感じさせるほどである」と述べている。驚いた。他方で、現代日本の状況は、研究者の仏教理解と実践者の仏教理解が、大きく乖離している状態であるとしている。「仏教というのはそもそも行学をともに修することで、はじめて正しく理解できる体系である」。ミャンマーで5年間テーラワーダを中心にした仏教の行学(実践と学問)を修してきた魚川祐司氏の言、説得力があるのである。 

⦅写真は、東京台東区下町民家のサフランモドキ(ピンクのゼフィランサス)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆