「真空妙有」

 引き続き『意識と本質』(岩波文庫)。『…もし表層意識が深層意識に転換し、「真如」すなわち絶対的無分節者が、その本源的無分節のままで現われてくれば、経験的存在世界においてあらゆる存在者を互いに区別する「本質」はことごとく消え失せてしまう』とし、このことを『大乗記信論』は、「言説(ごんせつ)の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相(意識の対象としてのあり方)を離れ、畢竟(ひっきょう)平等」と説き、「畢竟平等」、窮極的境位まで追いつめて観れば、なんの差別もない、すなわち絶対無分節であるとしている。この「畢竟平等」=「空」を背景として、あらゆる存在者が縁起によって成立するもの、相関相対的にのみその存在性を保つものと考えられるから、すべては「自性なし」つまり「……の意識」の対象とする志向性の基盤となる「本質」の実在性が否定されるのである。それでは通俗的仏教が言うように「世界は夢まぼろしのごときもの」なのであろうか。
……しかし哲学としての仏教はそう簡単にはそのような結論に行くことはしない。なぜなら、大乗仏教形而上学的体験における空には、「真空妙有」という表現によって指示される有的局面があるからだ。「本質」が実在しなくとも、「本質」という存在凝固点がなくとも、われわれの生きている現実世界には、またそれなりの実在性がある。「本質」はないのに、事物はあるのだ。「本質」の実在性を徹頭徹尾否定しながら、しかも経験的世界についてはいわゆるニヒリズムではなく、分節された「存在」に、夢とか幻とかいうことでは割り切れない、実在性を認めるのは、東洋哲学全体の中で、所々に、いろいろな形で現われてくるきわめて特徴的な思惟傾向だが、この東洋的思惟パタンを、大乗仏教において、特に顕著な姿で我々は見出す。……(同書p.24)
 ※「真空妙有」:一切を空であるとして否定したとき、もろもろの事物はそのまま肯定されて妙有であると考えられる。また真理ないし真如が、一切の妄想を離れて増すこともなければ減ることもない執着を離れたすがたを真空と称し、常住不変であって、しかも現実を成立せしめる真実の有(実存)である点を妙有という。本来、真実の空は、妙なる現実の生成・展開となるものであるということ。(中村元著『佛教語大辞典』東京書籍)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のキンモクセイ金木犀)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆