池内恵(さとし)東大准教授のブログ「中東・イスラーム学の風姿花伝」の『イスラーム教をなぜ理解できないか(1)「こころ教」のガラパゴス』に次のように書かれている。
……私はどのタイプの宗教が正しくて、他は正しくない、という立場ではない。しかし日本の外には律法主義を根幹とし、「本来」のあり方とする宗教があり、人数から言っても、国際世論の中での支配的な地位から言っても、そちらが圧倒的に優位である。このことを知らない、知ろうとしないことは非常な問題であると思う。日本の宗教意識は、「こころ教」に偏ったガラパゴス的発展を遂げているということをもっと知ったほうがいい。「こころ教」が一概に悪いわけではないが、それが世界標準だと思ってはいけない。
イスラーム教を理解できない、という日本の人たちは、あまりにもこの「こころ教」への無自覚な信仰が強すぎるのだろう。これは無自覚であるだけに厄介だ。キリスト教を固く信じているからイスラーム教を認められない、というような人はまだ、自分がどのような規範体系を信じていて、それに対してイスラーム教の規範体系のどの部分が認められない、ということを議論するきっかけがある。しかし「こころ教」の場合は、世界の大多数の人が信じている律法主義的な宗教を丸ごと「宗教じゃないでしょ」と言って頭から退け、自足してしまうのだ。……
http://ikeuchisatoshi.com/「こころ教」のガラパゴス/(「中東・イスラーム学の風姿花伝」)
宗教が制度であるということを認識することが前提である。では制度とは何か、『事典・哲学の木』(講談社)の解説を載せよう。
……制度とは、ある社会や集団ないし組織において、そこに所属する成員たちが規範的に妥当なものとして守るべき一定の行動様式やその行動様式の組織化されたシステムを意味している。制度は、たしかに規則、掟、慣習、法のように成員の行動様式を拘束する準則や規範として表象される面もあるが、むしろそれらの規範にしたがう行動のパターンを一定の安定したシステムに組織化したものといえよう。前者は規範的な拘束力として表象される制度であり、後者は組織的な実態として存在する制度である。いずれにしても、制度においては一般化された予期のシステムが安定したかたちで成立している。パターン化された行動のシステムとしての制度は、それぞれの成員が他の成員との相互作用において一定の役割期待や意味の構造を通じて適切な行動を選択できるように組織されている。この意味で、制度は成員間の行動の予期に確実性と安定性を与え、社会の秩序を統合し、期待するように機能するのである。……(内田隆三:p.626)
⦅写真は、東京台東区下町に咲く、上匂いイリス(アイリス)その2、下オリエンタル・ハイブリッドの百合ピンクパレス(Pink Palace)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆