貧乏がやって来る




「毎日、満員電車で通勤し、長時間労働に耐えている日本人だが、仕事をさぼって遊んでばかりのイタリア人と同程度の所得水準になってしまった」というのはあくまでレトリックで、ここで呆れるのにも呆れる。


 かつて社会学者が現代日本の貧困問題を論じていたこともあったが、また経済学固有の問題に〈回帰〉しているのだろうか。いずれにしろ、ブータン王国や江戸時代を賛美している場合ではないだろう。
 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41580(『上がる物価、下がる賃金「デフレ脱却」で労働者は貧しくなる』)
 http://diamond.jp/articles/-/55414(『公的年金財政検証から「灰色の未来」が見える』)
 http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4192(『「資本主義の終焉」? 脱成長路線では世界を救えない』)
 2018年にHP記載のBook reviewを再録しておきたい。
世界恐慌前夜のような昨今の経済状況を前にして、だいぶ前に読んだ内田隆三東京大学教授の『さまざまな貧と富』(岩波書店)を再読してみた。96年に岩波の「21世紀問題群ブックス」の一冊として刊行されたものである。この書においては、「システムは、自己の存続や成長という自己目的も含め、いかなる目的も乗り越えて成長していく」という、「ゆたかな社会を超えてさらに進行していく」時代の経済に最終的な関心があり、「貧富の差異によっては弁別不可能な、深刻な問題の圏域が存在する」ことに、考えるべき時代的課題を見据えている。その「ゆたかな社会」で「中流の生活」として意識されたものは、次のようなものである。
……これらの個人が「快適性」に関するある種の共同幻想を共有しながら生活している。これらの共同幻想は土地や血縁に埋めこまれた共同体的身体には準拠していない。それはきわめて抽象的な共同幻想であり、モノの体系のなかでの消費やメディアの媒介において「他者も願望するような生活」をしているという思いこみを根拠にしているのである。……
 そこで「いぜんとして残されている」とされた「貧困と富裕」という〈前段階〉の問題が、いま再び現われつつあるのか。事態は深刻である。しかし少し前の時代でも、問題は深刻であったのだ。「発展途上国地域の貧困は、現在の日欧米の『ゆたかな社会』の存立と構造的につながっている」と述べられた、そのグローバルな「構造的つながり」が国内に縮小されて実現しているのではないか。統計的根拠のある議論ではないが、日本で下層が増加した分だけ、あるいはそれ以上に発展途上地域において減少しているかもしれない。そうだとすると、問題の克服はいよいよむずかしいだろう。
 かつての村落共同体には、「異人殺し」の伝説が多く流布したという。「ある家が急に富をなしたのは、旅人を殺して所持金を奪ったからである」という物語のスタイルをもつ、伝承である。村落共同体は、こうしてこの長者を「祟り」によるとして没落させたのであった。
……つまり共同体にとって重要であったのは、蓄積される富が共同体とは成立の基盤を異にし、十分にその全貌を表象できない不安な存在だったことである。その富は「市場」という普遍的な社会性の場に根拠をもっており、「貨幣」というかたちに変換可能であり、そのことによって蓄積され、またいかようにも価値を変じうる富、つまり「貨幣的な富」だったのである。……
 いまや経験可能領域の普遍化すなわち資本主義化は世界の果てまで浸透し、「無限」の夢をひらき、「抽象的で普遍的な支配力」をもつ貨幣をめぐって翻弄されることとなり、市場と連結しない共同体はすでにない。先鋭的であろうとするなら、小説表現の対象もここに求めるべきだろう。(2008年12/8記)