アッシシの聖フランシス


 ローマ新法王(教皇)の名フランチェスコ一世に因んで、ひさしぶりに書庫から、下村寅太郎著『アッシシの聖フランシス』(南窓社刊:1965年初版)を取り出してみた。(※フランシス=Francisは英語読みである。)若いころ読んだ哲学・哲学史分野の本としては、かなり内容を記憶している。全頁にわたってずいぶん乱雑な赤の傍線が引いてある。そこのところだけ読んでも、全体の輪郭が掴めるようである。この13世紀の聖者について知っておくべきは、二点であるかと思った。即ち、
……(※フランシスの初期の仲間たちは)何れも自発的に一切の所有を棄てた人たちである。本来「持てる」人々であった。貧困の貴さは持てる者によって初めて意識される。フランシスの初期の仲間は実際はアリストクラット(※aristocrat=貴族)である。所有に飢えている者は無所有の徳を解しない。貧困の奴隷ではあっても貧困の主人、支配者ではない。フランシスの真の伴侶は貧困を支配する「貴族」である。フランシスの貧困道は単に貧困であることでなく、単なる所有の欠乏でなく、—単なる貧困は飢渇である—貧困に安らう者、貧困を悦ぶ者、所有の絶対的否定者である。内的精神的な貴族である。……(同書p.147)
……フランシスの哲学という如きものはない。フランシス自身には哲学も神学もない。寧ろそれを拒否した。フランシスは「思想」をもたない。フランシスは唯経験しただけである。その経験によって把握されたものに留まらんとした。それがいかに厳粛苛酷に見えようともその裡に安住した。それが貧困単純の「実例」の生活であった。これを自己の本分としただけでなくすべての兄弟たちにこれを要求した。このことの外にフランシスには「思想」はない。……(同書p.248)
 とくにフランシスの「経験」重視の精神が、オックスフォードのフランシス兄弟団を経由して、フランシス・ベーコンの実験的方法による真理の発見という近代科学の方法論に継承されているのではないかとの、下村寅太郎の見解は面白かった。
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の上乙女椿、下ハクモクレン(白木蓮)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆