朝早く起きて新京成・京成線を利用して千葉市まで出かけ、千葉劇場でいま話題の映画、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『ハンナ・アーレント(HANNAH ARENDT)』を観てきた。千葉劇場は、京成千葉中央駅から10分ほど歩いたところのビル2Fにあった。急な階段を上って、右が館内。座席数が110席だそうである。10時上映というのに、30分以上早くついたが中に入ることができ、坐ってだいぶ待った。たった一人だけの観客かと心配になっていたら、開始までには30~40人の客が入館、安堵。
http://www.cinemax.co.jp/chibageki/info.html(「千葉劇場」)
じつはハンナ・アーレントの著作は、『人間の条件』(ちくま学芸文庫:志水速雄訳)を途中まで読んだのみである。この映画は、『イェルサレムのアイヒマン』の刊行前後のハンナ・アーレントとその周辺の動向を中心として、ソファで横たわるアンナが過去を回想する、という形式で構成されている。物語の展開過程では、そのなかに青春時代の師であったハイデッガーとの恋の顛末も、回想中の回想として挿入されている。ハイデッガーの「思考する」ことへの欲望を他者の欲望として情熱的に学んだアンナ・ハーレントの出発点と、(男性としての)師との訣別が暗示されている。まるでプラトンが描いてみせた、ソクラテスとアルキビアデスとの間の師弟関係のようではないか。終幕でハンナがアイヒマン裁判をどう捉えたのかについて大教室で講義したとき、熱い眼差しで師アンナを視る男女の学生は、ハイデッガーの講義に魂の震えを覚えた若きアンナの〈再生産〉なのである。教育におけるエロースの力を思い知らされるシーンである。
監督のマルガレーテ・フォン・トロッタ(Margarethe von Trotta)の作品では、過去に『ローザ・ルクセンブルク』を観ている。最後の処刑される場面は印象的で脳裏に焼き付いている。
……軍人、ローザを引きずりオープンカーに乗せ、走り出す。/軍人が走って来て車に飛び乗り、ローザの顔に銃を向ける。/ローザ:(かすかな声で)やめて!/暗闇の街に銃声がとどろく。/(ラントヴェーア運河)運河の側に車が停められ、ローザが運河に投げ込まれる。/一瞬水しぶきが上がるが、やがて何事もなかったかのように静かな水面となり、闇の中、わずかに光を映している。……(『ローザ・ルクセンブルク』映画パンフレットp.30)
ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)は、アイヒマンはごく平凡な人間であり、もともとの極悪人として動機として悪をなそうとしたのではなく、ナチズムの組織のなかで「思考する能力」を欠落させていたに過ぎないこと、そしてこの組織のなかでの凡庸さが生む悪こそが現代最大の悪であることを訴えたのである。しかもユダヤ人指導者のなかにも結果としてナチズムの下請け的な協力者が存在したことを暴いたために、ユダヤ人仲間(ハンナ・アーレントはユダヤ人)からも糾弾され孤立を余儀なくされる。愛する夫ハインリヒ・ブリュッヒャー(アクセル・ミルベルク)と秘書ロッテ(ユリア・イェンチ)、そして友人の作家メアリー(ジャネット・マクティア)だけが数少ない理解者であった。いまであればブログ炎上のような事態が生じていたのであった。ハンナ・アーレントには、原発問題をめぐっての反原発サヨク、靖国参拝問題をめぐってのネトウヨを思わせるような仮借なき攻撃・罵詈雑言が浴びせられたのである。それでもハンナ・アーレントは自説を曲げなかった。
西洋現代思想・哲学は、あくまでも「西洋」現代思想・哲学であることを思い知らされることのない人は、この映画からあまり学べないだろう。登場人物の思索の糧に、アウグスティヌスやゲーテのことばが生きていることがわかる。最後のハンナ・アーレントの講義のことばは、感動的である。
……ソクラテスやプラトン以来私たちは‘思考’をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。……(パンフレットp.31)
http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110607/1307428641(「哲学的センスとはなにか」)