庭冬明創作集『深く遠い空』


 庭冬明さんから第二創作集『深く遠い空』(菁柿堂)の恵贈にあずかった。『人形と海』(菁柿堂)上梓以来30年ほどが過ぎている。変わらぬ健筆を慶びたい。
 8篇中7編の作品は、同人誌『虹』『蒼樹』『火』に発表されたもので、こちらもだいたい読んでいるはずである。最後の1篇が本の表題ともなっている未発表の「深く遠い空」。とりあえずこの作品を読んでみた。
 終戦により大陸から引き揚げてきた主人公一家が、はじめは父の実家のある茨城県河田村で暮らし、父が職を得てからは横浜に住み着くようになる。母はそこで結核で亡くなる。主人公が結婚してから後は東京中野区に40年ほど住まい、そして人生の晩期を迎え茨城県の牛久へ引っ越してくる。常磐線と並行に走っているはなみずき通りの描写で、この小説ははじまっている。
……年を重ねてついの住処に辿りついた身にとって、毎年はなみずきの白く燃えるような花群に包まれ生きられるのは嬉しい。はなみずきはアメリカ原産で別名アメリヤマボウシという。……(同書p.203)
 もはや昔日本がアメリカを敵として戦ったことさえ知らない世代が多数となりつつあるいまを、アメリカ原産のはなみずきに象徴させたわけでもあるまいが、結果的に効果的ではある。
 物語の中心は、中学時代の同級生で「おきゃんな明るい娘」だったトシ子と、青年時代に主人公が結核患者として入院療養していた病院で再会し、二人だけの時間をつくっていくところ。トシ子の妹が悪性脳腫瘍で息を引き取り、そして、トシ子は別にいた婚約者をも棄てて妻子ある男性と静岡のどこかに駆け落ちしてしまう。主人公の苦い青春の体験が思い起こされるのである。
 もともと待合の娘で「母の血が流れている」トシ子は、そういう育ちも関係しているのかはっきりとは書かれていないが、男のあしらいにかけては大した女である。売店で働くトシ子は、久しぶりに会った主人公に、 
……うふふと笑ってトシ子は「明子さんとはつきあっているの」と不意に聞いた(※「訊いた」だろう)。……(p.212)
 うぶな主人公から見たトシ子の肉感性・官能性が描写されているが、主人公の観察を越えるような女それじたいの謎が伝わってこないもどかしさを感じる。なぜ別の男と婚約を交わしたのかについて、トシ子は手紙で説明してくる。
……あなたはよくしてくれて誠実で責任感のあるひとだけど、でも女はそれだけじゃ駄目なんです。女には身体がある、生きている肉体があるの。……(p.225)
 これは男側からの解説であろう。自己批評であり、自分史についての「自虐史観」でもある。トシ子はトシ子をして生きさせよ。従来重厚な表現への偏倚傾向があるこの作家の作品としては読みやすかったが、トシ子が「嫣然(えんぜん)と私を見た」などとの表現はどうか? 「嫣然と微笑みながら私を見た」だろうが、肉感的ではあっても美女という印象でもない、作品中のトシ子のイメージとは合わない感じである。
 牛久でのいまに戻って、艱難辛苦を誠実に生きてきただろう主人公が最後に、「歳寒松柏を生きるべく生き、毎日を削るように生きるしかないのである」と結んだところには感銘を受けた。
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、はや梅雨入り近しを告げるアジサイ(紫陽花)たち・その2。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆