〈おれちん〉とは

 小倉紀蔵京都大学教授の『おれちん』(朝日新書)は、ツァラトストラならぬひとりのおれちんが、現代日本人の自我構造とそこから派生する精神状況を語る形式で展開されている。
ドラえもん』の登場人物ジャイアンは、「おれさま」の典型で傍若無人で横暴、のび太は「ぼくちん」の典型で、自閉的な依存性がそれぞれ特徴である。両者に重複するところはなく完全に非対称的でありながら、共同体の秩序を信じているところに唯一の共通性が認められる。ところが、現代の「おれさま」は、いざとなると責任はとらず、他者からのまなざしでは、「下位性」ないし「内部性」に閉じこもってしまう、これが「おれちん」である。「おれさま」と「ぼくちん」が融合してしまったのだ。いっぽう、「ぼくさま」とは、「オタク」に典型的にみられるように、自己から見て「エラクナイ」存在である「ぼく」が、他者からのまなざしでは「上位性」もしくは「外向性」をもって迫ってくる。(もっともインターネットの世界で尊大な態度をとる、あくまでも「内向性」を保持・自閉する「おれちんオタク」というのもあるそうだからややこしい。)
……まず、<おれちん>は、「自分は偉い」と思っている。しかしその自己意識は空回りせざるをえない。なぜなら彼を「偉い」と認めてくれる共同体が必要なのだが、彼は初めから共同体の存在自体を認めていないからだ。
 だから<おれちん>は、自閉し内向する。<おれちん>は共同体と無縁である。ここが、古典的な「おれさま」との決定的な違いである。
おれちん>をひとことで定義すると、「自分で偉いと思っている、だけど内向している」つまり「自尊し、かつ自閉している」という存在なのだ。
 この<おれちん>増殖の温床として「個性」という名の病気がもたらしたあわれさがあるとの指摘には、反省させられた。
「個性」ではなく「実力」しか、めしを食わせてはくれないのだぞ。……大人は若者にそのようにいうべきだったのに、羞恥心に満ちたこの国の大人は、「実力」という言葉を放送禁止用語のように忌避していわないで、過ごしてきた。
 そのことを教えられていない若者たちは、「個性」を磨こうとするけれども、実際はその「磨き方」さえわからないのだ。「実力」は磨けるが「個性」は磨けない、という重要なことを、この国の大人は秘密にしてきたからである。……
 官僚や教育者や企業人など根本的に「反個性」の陣営によって、政府や学校や会社にとって都合のよい「個性」のみが「個性」として認められてきたため、その結果「個性」も失い、絆も失い、あわれなことになったしまったというわけだ。
 さらに論理整合的な倫理的価値の体系自体を忌み嫌う現代日本の風潮も<おれちん>の温床であるという。
……今の日本は、ある頼りにする普遍的な価値体系を「国民」が一切共有できぬという意味で、「国民国家」の歴史上、初めての事態を経験している国なのだ。それゆえわれわれが、今せねばならぬのは、壮大なひとつの実験なのだ。
 それは<おれちん>の実験である。……
 しかし<おれちん>といえども、「この世に新しいことなど何もない」との既視感や、価値相対主義に飽き疲労してきたとき、新しい「共同体主義」と「ナショナリズム」に呑み込まれるかもしれない危機感も、無論この本の逆説的語りのスタイルで漂わせている。プレモダンからモダンにかけての<主体>確立のキーワード「アイデンティティ」と、ポストモダンと後期資本主義とネオリベラリズムが合体した、商品化の概念「コンセプト」が融合して、「アイコン=icon」が生まれるという。巧い。このicon=図像に、<おれちん>国民が吸引されるかもしれない危うさを警告しているのである。
 なおメディアとくにインターネットの利用のされ方についての日韓の比較は勉強になる。日本では、ネット世界は匿名性が高く、最初からポストモダンのメディアとして定着しているが、韓国においては、プレモダンとモダンとポストモダンを結びつけ縦断するメディアとして発達してきたので、実名性が強く、ネットの世界と現実世界の通路が開けていて、むしろリアルな世界の絆を強化するために奉仕しているのだそうである。<おれちん>が跳梁しにくいわけである。

おれちん (朝日新書)

おれちん (朝日新書)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、ハナニラ花韮)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆